日本共産党の創立メンバーは誰? 第1回大会(渋谷)に出席した8人

2022年に日本共産党は創立100周年を迎えました。この100周年というのは、創立大会=第1回大会とされる会議が開かれた日を起点としています。学術的には若干の論争があるものの、1922年7月15日に開かれたとされる会議をもって日本共産党は正式結成されたというのが定説であり、党の公式見解でもあります。この党結成の場に立ち会った創立メンバーはどんな顔ぶれだったのでしょうか。結成大会に直接関わった人々を紹介します。

会議に出席した8人

大会は当時豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字伊達跡(渋谷区伊達町を経て現在の渋谷区恵比寿三丁目)にあった高瀬清の下宿の2階で開かれました。この会議は前年に成立した日本共産党暫定執行委員会(設立準備会)の第一回正式細胞(支部)代表者会議として開かれ、国内の各種共産主義者グループを代表する8人が参加し、日本共産党の正式結成を可決しました。

堺利彦(さかいとしひこ 1871~1933)

日本社会主義運動草創期からの指導者。現在の福岡県生まれ。幼少より自由民権思想を持ち政治家を志す。1887年第一高等中学校(現在の東京大学)に入学するも89年除籍。文筆業の傍ら『防長回天史』の編纂に従事、99年万朝報に入社し幸徳秋水、内村鑑三、河上清らと親交を持つ。01年社会民主党の結成に参加を志すも結社禁止のため果たせず。日露戦争時に非戦論を掲げ、万朝報を退社し週刊「平民新聞」を創刊。06年社会民主党結成。いわゆる赤旗事件で大逆事件の難を逃れ、「社会主義冬の時代」の間の困難な時期の運動を支えた。大正期に社会主義運動の復活と本格的なマルクス主義の研究に取り掛かり、20年の日本社会主義同盟結成、22年の日本共産党結成にあたっては古老として活躍する(ML会グループ)。党国際幹事。第一次共産党事件で検挙され、再建された党には参加せず『労農』を発刊し労農派を形成した。無産大衆党結成に参加、東京市議(1期)。社民勢力内の左派として全国大衆党、全国労農大衆党の結成に参加。満州事変の際には無産政党内で戦争反対の闘争を行うも、33年脳溢血で死去。画像出典See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

山川均(やまかわひとし 1880~1958)

現在の倉敷市生まれ。同志社中学を中退して上京、1900年に守田有秋と『青年の福音』を発刊し、論文が不敬罪に問われる(同罪史上最初の適用)。06年日本社会党に参加、日刊平民新聞の編集に携わる。赤旗事件で投獄されたため大逆事件の難を逃れる。16年堺利彦の売文社に参加、上京し普選運動。21年の日本社会主義同盟結成、22年の日本共産党結成に参加(水曜会・大森派グループ)、総務幹事。「無産階級運動の方向転換」を著した(山川イズム)。

第一次共産党事件で検挙され、解党を支持共同戦線党論を掲げるとともに、堺、猪俣津南雄らとともに『労農』を創刊し「労農派」を形成。社民勢力左派の立場から無産政党の運動に携わるも、運動の右傾化を阻止できないまま37年人民戦線事件で検挙。

戦後は日本社会党には参加せず、社共合同を推進する立場から民主人民戦線を結成するも成らず。その後は分裂時の社会党左派の理論的支柱となり、51年には大内兵衛とともに社会主義協会を結成した。58年すい臓がんで死去。

画像出典 See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

近藤栄蔵(こんどうえいぞう 1883~1965)
近藤栄蔵

現在の文京区出身。片山潜の著作に触発されて1902年渡米し農業を学び帰国後東京で農業・商業を営む。16年再び渡米して行商を営み、17年にニューヨークで亡命中の片山潜と出会い、在米日本人社会主義運動に加わる。18年米騒動に触発されて日本に共産主義運動を起こすべく帰国、これが「西回りルート」の日本共産党結党の最初の契機となった。大杉栄の第2次『労働運動』にボルシェビズムの立場から参加、その傍らコミンテルンとの連絡を確立、堺・山川とともに日本共産党暫定執行委員会(準備会)を結成。暁民共産主義者団の反戦ビラ事件で検挙。日本共産党の正式結成に参加し中央委員。第一次共産党事件で検挙を逃れソ連に亡命し、プロフィンテルン常任委員、24年コミンテルン5回大会日本代表。26年の帰国後は共産党とは距離を取り、無産政党中間派→国家社会主義政党に関わるも、偽装転向と疑われ42年治安維持法違反で検挙。

戦後は政治運動から手を引き、高瀬清と戦災者援護運動に携わったほか、障碍者福祉・老人福祉事業を営んだ。

画像出典 同志社大学人文科学研究所編『近藤栄蔵自伝』ひえい書房 1970年

吉川守圀(よしかわもりくに 1883~1939)
吉川守圀

東京桧原村出身。済生学舎(現在の日本医科大学)中退。1904年に平民社に参加。06年日本社会党結成に参加し、電車事件で検挙。その後日刊平民新聞の編集に携わる。日本社会党の禁止後は社会主義同志会を結成、その後堺の売文社に入る。20年の日本社会主義同盟結成、22年の日本共産党結成に参加、規律委員。23年第2回大会で執行委員。

第一次共産党事件で検挙、出獄後は再建された党には戻らず『労農』創刊に参加し労農派を形成。東京府会議員(1期)。37年人民戦線事件で検挙され、出獄直後に死去。

画像出典 津川勇『親鸞精神に生きた高津正道評伝』中外日報社 1986年

橋浦時雄(はしうらときお 1891~1969)
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鳥取県出身。中学時代に平民新聞を購読し社会主義に共鳴。1908年早稲田大学入学、幸徳・堺らの社会主義研究会に参加。10年大逆事件に連座して検挙されるも12年大赦。堺らの売文社に参加、18年暁民会結成。20年の日本社会主義同盟結成、22年の日本共産党結成に参加(時計工組合グループ)、会計幹事。出版労働者の組織者を進めるも第一次共産党事件で検挙。その後再建された党には参加せず、労農派に参加。37年人民戦線事件で検挙。出獄後は城西消費組合などの生協運動に携わる。

民俗学者の橋浦泰雄は兄。

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浦田武雄(うらたたけお 1893~1973)
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熊本県出身。1920年日大専門部中退、暁民会に参加。暁民共産主義者団事件で検挙。22年の日本共産党結成に参加(山の手派・暁民会グループ)。事実上の機関紙『農民運動』の主筆を務める。第一次共産党事件で検挙。

出獄後は再建された党には参加せず、産業労働調査所、社会運動通信社で活動。労農運動、水平社運動に参加。

戦後、引揚者擁護運動に参加。再建された共産党に再入党するも、50年問題の際に離党

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渡辺満三(わたなべまんぞう 1891~1925)
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現在の松山市出身。上京して時計工になり、20年時計工組合結成。20年の日本社会主義同盟結成、22年の日本共産党結成に参加(時計工組合グループ)。第一次共産党事件で検挙され、未決拘留中に結核が悪化。保釈後に警官から暴行を受け急死。画像出典 en:User:Geni, en:User:David Gerard, en:User:Vystrix Nexoth and User:Swind, CC BY-SA 3.0, ウィキメディア・コモンズ

高瀬清(たかせきよし 1901~1973)
高瀬清

岐阜県生まれ。1919年早稲田大学政治経済学科予科に入学。20年に暁民会に参加し、同年社会主義運動参加を理由に早大放学。21年日本共産党暫定執行委員会に参加。22年7月15日、日本共産党第1回大会は渋谷にあった高瀬の下宿で開催された。コミンテルン第4回大会に出席。暁民共産主義者団事件と第一次共産党事件で入獄、離党。その後中間派無産政党の日本大衆党に参加、麴町区議(2期)。その後の離散集合により全国大衆党・全国労農党・社会大衆党の指導部を歴任。戦後は日本社会党に所属して国政候補者活動。近藤栄三とともに戦災者擁護運動に携わったほか、社会運動史の著述に努めた。

画像出典 高瀬清『日本共産党創立史話』青木書店 1978年

役員とロシア派遣団

この大会で討議・決定された事項は、コミンテルンの規約・加盟条件の承認、党の正式決定、綱領と規約の確定、役員の選出でした。この時本当に綱領について議論・決定されたかどうかについては、通説が定まっていません。

この大会で選ばれた中央委員(執行委員)は堺、山川、近藤、橋浦、吉川のほかに、出席していない荒畑寒村と高津正道を合わせて7人で、堺が委員長に選出されたとされています(異説有)。役員としては暫定的に山川、荒畑、高津を総務幹事、堺を国際幹事、橋浦を会計幹事、吉川を規律委員に選出しています。

このほか、11月に予定されているコミンテルン第4回大会に代表を派遣することになり、高瀬と川内唯彦が派遣されました。

高津正道(たかつせいどう/まさみち 1893~1974)
高津正道

現在の三原市出身。浄土真宗本願寺派の寺族として生まれ、21歳で住職。1918年上京して早稲田大学に入学、雄弁会やアナキスト団体「北風会」で活動。19年民人同盟会を結成し、その中で高瀬清、川合義虎らとともに暁民会を組織し社会主義運動に参加。20年の日本社会主義同盟結成に参加し放校、暁民共産主義者団事件で検挙。22年の日本共産党結成に参加。第一次共産党事件で検挙を逃れソ連に亡命。24年帰国し自主、出獄後は福本イズムに反対し党を離れた

地方無産政党で活動、その後労農派に参加。妹尾義郎らの新興仏青に協力。37年人民戦線事件で検挙。

戦後は日本社会党結成に参加し中央執行委員。衆議院議員(5期)、衆議院副議長、日本社会党顧問を歴任。

画像出典 津川勇『親鸞精神に生きた高津正道評伝』中外日報社1986年

荒畑寒村(あらはたかんそん 1887~1982)
荒畑寒村

寒村は号。本名勝三(かつぞう)。横浜市出身。小学校卒業後海軍工廠の見習職工などを勤める。1903年、幸徳・堺の「退社の辞」に感銘を受け社会主義者になる。平民社に参加。赤旗事件で検挙されたため大逆事件の難を逃れ、堺の売文社や大杉栄の「近代思想」に参加。このころアナルコ・サンディカリズムに批判的になり、徐々にマルクス主義に接近。ボル派の指導者として『前衛』に参加し、22年の日本共産党結成に参加(LL会グループ)。コミンテルンに党の成立を報告するために訪ソするも、その間に第一次共産党事件と関東大震災が発生。荒畑は解党に反対し、党再建につとめた。帰国後入獄、出獄後は福本イズムに反対し離党山川均らと『労農」を創刊し労農派を形成した。37年人民戦線事件で検挙。

戦後は日本社会党の結成に参加し、山川とともに民主人民戦線結成につとめた。48年衆議院議員に当選するも、社会党を脱党。51年に山川・向坂逸郎らと社会主義協会を設立するも直後に脱退し、政治運動から引退した。

画像出典 荒畑寒村, Public domain, via Wikimedia Commons

川内唯彦(かわうちただひこ 1899~1988)
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福岡県出身。中江兆民の「一年有半」の影響を受ける。東京外国語学校(現在の東京外国語大学)ロシア語科に進学(同級生に蔵原惟人ら)、在学中に堺利彦主筆『新社会』を読み社会主義者になる。20年の日本社会主義同盟結成大会に出かけて官憲の横暴を目撃し、堺のML会に参加し運動に入った。22年の日本共産党結成にML会員として参加。訪ソしてコミンテルンに結党を報告。

第一次共産党事件では検挙されず、24年の解党を迎えた。その後はレーニンをはじめロシアのマルクス主義文献の邦訳に従事。プロレタリア科学研究所、唯物弁証法研究会、日本戦闘的無神論者同盟(戦無)などに参加。31年再入党。34年戦無への弾圧で検挙。

戦後もマルクス主義文献の普及につとめた(戦後の党籍不詳)。

画像出典 en:User:Geni, en:User:David Gerard, en:User:Vystrix Nexoth and User:Swind, CC BY-SA 3.0, ウィキメディア・コモンズ

赤名
赤名

創立大会出席者の平均年齢は35歳、最高齢で運動内の長老格の堺利彦でも51歳です。運動の若さを感じますね。

赤名
赤名

橋浦、浦田、渡満、川内の顔写真は見つけられませんでした。掲載されている書籍をご存じの方はぜひ教えてください。

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