あたしはこの一年半、楽屋裏で吉田がなにをしているかを、この目ではっきりと見てきた。吉田のもとでは、全面講和もなにもあったものではない。そして彼らは、その反動性をかくすために反共を叫んでいる。反共は内容のない声である。これは、戦争前夜の声である。
1950年4月3日 全京都民主戦線統一会議主催「吉田内閣打倒人民大会」(円山公園音楽堂)での演説より
吉田反動内閣の打倒を叫んでいるとおっしゃいましたが、私は知事就任以来どこまでも府民の立場においてそういう言動をいたしたことはございません。恐らく評論家の時代だったと思うのであります。
1950年6月9日臨時府会での田村義雄副知事選任の承認に関する答弁より
反共は戦争前夜の声であるということは、私ははっきり申しました。いまもそう信じております。これは反共ということは、けっきょくそのような反共の声をあげるというようなときは、つねにただそれだけにとどまらずして、ただ軍国主義的な意向のみをつよくしてあらゆる思想を圧迫するというようなことは、歴史的な事実である。反共の声のあげられるようなときには、つねにこの戦争の前におこる声だということは、これは歴史のしめす事実でありまして、これはわたしはよく申しました。
五月一日に府庁に赤い旗がたてられたというのでありますが、それはわたしがたてたのではございませんので、たまたまそのとき自由労働者の諸君が陳情にみえたときに持ってきた旗だそうで、この点誤解のないようにお願いいたしたいと存じます。
メーデーのときにうれしそうに先頭に立ったという点でございますが、私は本当にうれしかったのでありまして、働くものの祭典として立ったのであります。別にあれはデモ行進でも何でもないので、働くものがほんとうに働くものの決意をかため、そして労働することに感謝をする日である。これは世界各国で行われているのでありまして、決してこれは過激な思想とかなんとかいうものではないと存じまして、私は立ったのであります。
思想がわるいが、それは責任はないかということでありますが、知事の職務はつねに議会のご審議によっておこなわれてゆくのでありまして、これからもわたしにわるい点がございましたら、さきほど申しのべましたように議会により、あるいは議員各位からいろいろご忠告をあおぎたいと存じます。わたしはどこまでも中正な正しい思想、とくに三〇年来学問をしてきたわたしとして、いまさら五〇年をこえたこんにちわたしの思想がまたかわってゆくとはおもいませんので、ご了解をねがいたいと存じます。したがいましていま自分の思想がわるいからここですぐ辞めるとかなんとか、責任を取るとかいうことはございません。四年、完全に務めさせていただきたい。(拍手)
1950年6月9日臨時府会での田村義雄副知事選任の承認に関する答弁より
アイキャッチ画像:1950年5月1日 民統主催の京都統一メーデー 行進の先頭を行く(右から)大山郁夫早大教授・民主主義擁護同盟会長、蜷川虎三、高山義三京都市長
「組合弾圧は……」と続く(とされる)前後の発言を含めた完全なものを探しています。ご存じの方はご一報ください。
出典:
細野武男編、蜷川虎三(1974年)『道はただ一つこの道を : 蜷川虎三自治体論集』民衆社。
細野武男・吉村康編、伝記編集委員会(1982年)『蜷川虎三の生涯』三省堂。