なぜ人は運動から離れるのか : 左翼文化と運動の展望

By Michael Albert, Bridget Meehan

 進歩主義者、左翼、ラディカル、あるいは革命的な仲間が、「私は左翼“だから”ではなく、左翼“なのに”左であり続けているんだ」なんて言うのを聞いたことはありませんか。左翼というのはある種の共同体です。左翼の組織、プロジェクト、キャンペーン、運動の中に多様に現れる伝統、儀礼、規範の数々を有しています。もちろんその中には多様なバリエーションがあります。しかし、期待される言語、伝統、儀礼、規範を相応に実践している左翼の人々でさえ、その一部を嫌っていることが多いことがわかります。実際、進歩的な左翼、急進的、革命的なプロジェクト、組織、党、運動から離れる人(時間とともに多くの人が戻らなくなる)の多くは、左翼で遭遇したコミュニケーションや意思疎通が主な原因ではないでしょうか?

 そう考えると、左翼の行動、あるいは少なくともその行動に対する人々の印象の何が左翼の目的に共感する人々をして拒絶せしめているのだろうかと、合理的に考えることができるでしょう。

 進歩的、左翼的、急進的、革命的な(以下、単に左翼と呼びましょう)政治プロジェクトや運動に関わるようになるのは、多くの場合世界をより良く変えたいという純粋な願いからです。左翼の思想は彼らの心に響いていた。しかし、もしほとんどが世界を良くしようと運動に参加するのであれば、なぜ長く続かないのでしょうか。

 そもそも本当にそうなのだろうかと疑問に思うかもしれません。本当に多くの人が左翼から去っているのでしょうか? 例えば、過去50年間に反戦、フェミニズム、性的少数者、反人種差別、反核・反原発、気候変動、労働運動、コミュニティなどの運動に参加した人たちの数を思い浮かべてください。数百万人。あるいは数千万人かもしれません。その中で、今日まで左翼のプロジェクトや運動に積極的に携わっている人は何人いるでしょうか。当然ながらその答えは、極めて少数です。これは大きな問題なのです。実際のところ活動家が直面する最も深刻な問題かもしれません。私たちは運動を絶えず拡大していますが、あまり成長はしていないのです。定期的に起こる急激な成長の後、運動は縮小していきます。それはあたかも、排水口を開いたまま蛇口を開けているときの風呂桶の水位と同じです。水位は静止しているのです。

 世界で最も強力な組織と戦うことは容易ではありませんし、誰もが疲弊してしまうのは疑いないことです。もちろん、左翼運動に参加した人が後に去っていく理由もここにあります。政治的な仕事は困難で、ストレスが多く、負担が大きい。人を疲れさせます。事実としてバーンアウトはあります。しかし、なぜ私たちは、そのようなプレッシャーに耐えている人々をもっとうまくサポートすることができないのでしょうか?

 進歩的、左翼的、急進的、革命的であることは、より良い世界を達成したいと願うことであるべきでしょう。そしてそれは、より良い世界を達成するための障壁を明らかにすることであるべきです。障壁の根源とメカニズムを理解し、その結果得られた核心を伝え、その障壁をのりこえるためのキャンペーンを展開することを意味するはずです。

 では、私たちはそのようなことをできているでしょうか。人々が興奮と熱意をもって参加し、疲れ果てて落ち込んで去っていくという事実によって私たちの運動の規模は制限されているように思えますが、それに対して何かできているでしょうか。その現象の問題点を十分に把握し、その問題点を伝え、その問題点を克服するためのキャンペーンを展開しているでしょうか。そうでないとしたら、なぜ? それは、自己評価、特に修正可能な欠陥を見つけることが不快だからでしょうか? 一部の人を不快にさせるとわかっているからでしょうか。左翼は自分たちの成功を阻む主流の問題を特定する用意があるのに、なぜ自分たちの集団的実践の中に問題を見つけるのを躊躇するのでしょうか。それは、重荷になりたくないから、弱体化させたくないから、和を乱すと言われたくないからでしょうか。

 おそらくここでいくつかの重大な問題を特定できるでしょう。重要なのは、ここで述べた問題が左派の全員に当てはまるか、あるいは大部分にか、究極的にはある意味で誰にでも当てはまるかどうか、というようなことが問われているのではないとを認識することです。重要なのは、ここで述べた問題がそもそも人々が左翼から離れたり、左翼に参加しなかったりする理由を特定できるかどうかということです。

 活動家はときに、新しい人々はただ真実を聞き、布団から飛び起きるように真実に目覚め、政治運動に参加し、没頭し、指導者になるべきだと考えているように見えることがあります。もちろん、貧困にあえぐアメリカ人の大半や、生活費を稼ぐのがやっとの人々にとって、それは現実的ではありません。現実とは、複数の仕事、危険な住居、健康問題、膨れ上がる請求書や借金です。日常生活のプレッシャーは、すべてを飲み込んでしまいがちです。もし私たちが、実際の労働者階級の人々が参加すること、ましてや変革のためのキャンペーンに没頭し主導することを真剣に考えるならば、まず彼らの日常生活が、既存の左派作家、活動家、オーガナイザー、論客のそれといかに異なるかを理解しなければなりません。そしてその違いを理解した上で、その理解に照らして行動しなければならないのです。

 セオリー通りに労働者階級の人々に働きかけ、巻き込むために、左翼は労働者階級の人々が政治活動に参加しやすい状況を作り出すような改革や立法にかなりの部分で焦点を当てなければなりません。直接には学生ローンの廃止、生活最低賃金、十分な手頃なか無料の住宅、無料または手頃な保育サービス、社会保障費の拡大、無料でユニバーサルな保育と医療、そして特に賃上げによる労働時間の短縮、さらに組合や一般労働者の組織化と改革に関するより良い条件の実現を求めてもよいでしょう。

 これらの問題は、確かに左翼の全体的なコミットメントの一部であり、したがって活動家のレトリックにも含まれているはずですが、にもかかわらず、多くの組織化活動においてそれほどうまく強調されていないことがかなりあります。それは、左翼運動の中で重要な役割を担う人々の多くが、労働者階級のコミュニティ出身でないことも一因でしょうか。それゆえに彼らは労働者階級の人々の必要をすぐにそれほど切実に感じていないのでしょうか。

 例えば、スペインやアイスランドでは労働時間が短縮され、カリフォルニア州やワシントン州では最低時給が15ドルとなりました。最も注目すべきは、おそらく最も影響力のある、ここ数年の労働運動による大規模なストライキです。これらのストライキは大陸を越え、産業部門を越え、何百万人もの労働者を巻き込みました。しかし、これらのストライキの大部分は(必ずしも左翼的でない)労働者自身によって組織され、際限のない職場での違反や虐待に耐えられなくなり、組合結成、賃金や条件の改善を求めて戦ってきたということは、左翼について何を教えてくれるでしょうか。そして、もともと左翼を自認していなかったストライキ参加者の何人が、今では自らをもって左翼と任じているでしょうか。

残念ながら、歴史が示すように、左翼運動が過労と時間的ストレスを抱えた労働者を惹きつけても、そのほとんどは最終的に去っていきます。おそらくその大きな理由は、多くの左翼の機関、組織、運動が、最も必要としている人々を援助し、力を与えるために、既存の資源を(それがどんなに限られていても)参加者の間で内部共有しないことにあります。組織や運動の中で、メンバーが前進するための真剣な相互扶助を実践することは稀であるばかりか、組織化された各活動は、限られた資源のプールをめぐって他者と競争することが多いのです。おそらく左派は、さまざまなグループ、運動、政党、プロジェクトなどの間で、またその中で、まったく異なる物質的状況を持つメンバー間で、資源を公平に共有する方法を考え出した方がよいでしょう。そうすれば、人々が離れていくような圧力を減らすことができるかもしれません。

 成長を妨げるもう一つの要因は、私たちがあたかも聖歌隊に説教するかのような状況が多いことです。確かに、聖歌隊は練習と補強を必要とします。歌に磨きをかけ、それを維持する必要があるのです。しかし、左翼は自分自身に語りかけることにあまりにも多くの時間を費やしすぎています。しかも、すでに知っていることを繰り返し伝えているのです。私たちは抗議を呼びかけます。ソーシャルメディアに投稿します。また抗議を呼びかけます。その間、私たちはなぜ人数が増えないのか不思議に思います。しかし、多くの場合、私たちは自分たちのサークルやメーリングリスト、オンライン上の連絡先を超えて、私たちが言わなければならないことを伝える方法を見つけられていませんし、自分たちのサークルに向けて話す場合、私たち全員がすでに同意していることだけを話しています。

 その理由のひとつには確かに、より遠くまで届くツールがないことがあるでしょう。しかし、そのほかには、それ以上届かないことが心地よいからということはありませんか? そして、動員することと組織化することを混同しているからではないでしょうか? 左派は組織化に、つまりは左派と自認していない人たちに手を差し伸べることに、十分な時間を割けていないのです。左翼の文章のほとんどが自分たちに向けられたものです。それが賢明な場合もあります。しかし、常にそうであるとは限りません。この問題は、方法と認識の両方に関わるものです。私たちに賛同していない人たち、いや、現在反対している人たちでさえも、真剣に、誠実に耳を傾け、語りかけることにもっと時間を費やすことが、溝を越え、新しい関係や個人的な絆を築くために役立つのではないでしょうか?

 結局のところ組織化とは、大量の「普通の」人々を巻き込み、彼らを左翼に引き入れ、左翼の中のすべての人々をエンパワメントし、維持することであるべきなのです。そのためには、私たちに賛同していない人たちや、私たちと同一視していない人たちと話をし、一緒に活動することが必要です。私たちの数が増えないのは、数を増やすために必要なことを実際に行っていないからです。

 しかし、さらに人が離れていくのはどうでしょうか。もし1960年代から現在に至るまで、メンバーの維持と育成の割合がもっと高かったら、ビジョンと戦略を共有し、組織化され、献身し、訓練を受けた数千万人の活動家が一緒に活動していたことでしょう。これは疑いようのない事実です。そして、それがなかったことに疑う余地はありません。

 この議論の余地のない観察から導かれる悲しい真実は、多くの人々が左翼から離れていき、その人々をざっと調査すると、左翼の行動パターンに嫌気がさしたためであることが非常に多いということです。(紋切り型通りのあいさつや世間話するのではなく)「今日は一日どう動くの」とまじめに尋ねたことのない左翼がどれだけいるでしょうか? 左翼の人々の多くは、会議や電話かけに飛び入り参加したり、イベントに参加したり、目の前の仕事のことしか話したがりません。それは不快であり、ある程度愛想がないものです。あなたのことですか? そうではないかもしれません。おそらく違うでしょう。でも、自分じゃないからと言って、払いのけてはいけません。それはあなたの知人ですか? そうではないかもしれません。たぶん違う。しかし、そのような理由で検討を避けて殻にこもってはいけません。実際、人は去っているのです。重要なのは、「なぜだろう」と考えることを避けることではありません。重要なのは、なぜそうなるのかという理由を見つけ、修復することです。

 変化を勝ち取るためには、犠牲と、特に信頼が必要です。信頼を得るためには、一緒に働く人たちと個人的な結びつきを築く必要があります。それは、1対1の会話、同じ釜の飯を食べ、個人的な物語、夢、願望、恐れを共有することによってのみ実現することができます。踊ったり、話したり、ゲームをしたりすることで、それは実現します。もし私たちがラディカルな、ましてや革命的な運動を真剣に起こそうとするならば、特に運動に参加させようとする人たちと意図的な関係を築くことを真剣に考えなければなりません。

 では、積極的で明確な思いやりのある関係がないからといって、人々が去っていくのでしょうか? いいえ、それは重要な側面ですが、唯一の理由ではありません。最近、誰もが「キャンセル・カルチャー」あるいはそれ以前の「ポリティカル・コレクトネス」という言葉を耳にしたことがあるはずです。もちろん、これらの言葉はエリートが彼らの望ましくない行動を幅広く正当化するために冷笑的に使われてきたものですが、だからといって、「キャンセル・カルチャー」が多くの労働者階級の人々を左翼運動への参加や滞在から遠ざけているという観察に何の意味もないわけではありません。それは、他の人々がなぜ離脱するのかを考え、理由を特定し、その理由に対処し、理由を克服し、理由を超越するための努力をともすれば妨げることさえあります。

 一例として、トランスジェンダーの女性が女性スポーツリーグに参加することについての議論を考えてみましょう。多くのリベラルで進歩的な女性たちがこの問題を提起してきましたが、そのためにしばしば恥をかかされ、非難され、攻撃されさえしてきました。だからといって、すべての人がそのような反応をしているのでしょうか。もちろん、そうではありません。しかし、見ている人は、左翼と異なることをすると、恥をかかされ、糾弾され、打ち消されるという印象を受けるのでしょうか。特定の問題に対する見解に関わらず、それを本当に否定できる人がいるでしょうか?

 例えば、左翼界隈では、既存の左翼の正統性が正しいということは当然の結論であり、それ故に議論の余地はないのです。異論を唱える者は淘汰され、恥をかかされる危険がある。このようなやりとりは、重要な問題について本質的なコミュニケーションをするどころか、人々を遠ざけてしまう。左翼運動をしている人たちや、外から見ている人たちを遠ざける。つまり、私たちが最も関心を寄せるべき人たちを遠ざけてしまうのです。

 アメリカでは多くの人が銃を愛し、所有していることは周知の通りです。実際、パンデミックが始まって以来、何百万人もの人々が銃を所持しています。銃文化は米国文化の紛れもない構成要素です。どのような分析をしようとも、それはすぐにはなくならない。では、左派は銃の所有者を非難すればいいのでしょうか。もちろん、そうではない。銃や銃文化を一律に非難することは、人々を我々の側に引き込もうとするのであれば、最善の政治路線とは言えません。

 もう一つの例として、選挙は左翼の最悪の部分を引き出す傾向があります。戦略的投票、つまり通常は民主党の候補者のどちらかに投票することを主張する人々は、「帝国主義と資本主義の擁護者」として描かれ、一方、例えば前回のバイデンへの投票を拒否した人々は、「思慮のない愚か者、真剣に取り合わないでほしい過激派」として描かれるのです。

左翼が本質を避けて、代わりに思い込みの動機で争うとき、彼らはしばしば互いを貶め、侮辱し、本質を真剣に議論する余地はほとんどありません。そのような振る舞いは、人々が離れていく原因の一つです。

 もう一つ例を挙げると、長年にわたり、左派は新参者が肉を食べ、コカコーラを飲み、ピックアップトラックに乗り、カントリーミュージックを聴き、完全に腐敗した恐ろしいシステムの中で限られた選択肢の枠組みの中で人々が行うあらゆる個人の行動を非難するのを見てきたのではないでしょうか。すべての左翼がこのように他人を悪者扱いしているのでしょうか?もちろんそんなことはありません。しかし、人々が何を食べたり飲んだりするか、どこで買い物をするか、どんな音楽を聴くか、誰と寝るか寝ないかを選択することが、しばしば子どものようないじめの材料にさえなることがあるのです。確かに、ある人が他の人から拒絶されるような習慣ややり方を持っているからといって、その人の話を聞いたり、共感や理解をもって接したりすることを妨げるべきではありません。

 私たちは皆、地理的、文化的、経済的、政治的、社会的な背景が大きく異なっています。私たちが知っていること、経験してきたことは、実にさまざまです。その違いが、理解や相互利益のためではなく、攻撃したり攻撃されたりするための口実となり、人々を遠ざけてしまっています。暴力や脅迫、人種差別、性差別、同性愛差別、さらにはもっと一般的な階級差別など、直接的に誰かを脅かさない限り、人々のバックグラウンドは尊重されるべきです。

 そして、このことは、密接に関連しているとはいえ、もうひとつのポイントである「言葉の取り締まり」につながっていくのです。この点を、現実的かつ建設的な角度から見てみましょう。私たちの多くは、広い連携を必要とするキャンペーンに関与してきました。例えば、環境保護キャンペーンを考えてみましょう。このキャンペーンには、農村部の白人、都市部の黒人、大学教育を受けた白人や黒人など、左翼を自認する人々が参加してきます。おそらく、どのグループもキャンペーン以前にはあまり、あるいはまったく交流がなかったと思われますが、キャンペーンを成功させるためには、関係を構築する必要があります。

 このようなキャンペーンでは、都市部の黒人と地方の白人は、自称左翼がどちらのグループとも交流するよりもずっと簡単に交流できることが多いのです。このグループは、他の両グループが使う言葉の多くや、彼らの文化的習慣にしばしば愕然とすることがあります。デザイナーズビール、流行りの奇抜な服装、ポップカルチャーやスポーツへの敵意、コーヒーハウス音楽などは、田舎の貧しい白人やゲットーの都市部の黒人とは相容れません。

 時には、物事が白熱することもあるでしょう。例えば、田舎の白人は、人種差別的な言葉を使ったり、人が困るような言葉を使ったりすることがあります。しかし、これは黒人グループにも言えることです。大学のラディカリストは、どう対応したらいいのかじたばたする。自分たちのよく練られた議論や好みの問題に対して、それらのグループがどう反応するべきだったかという先入観は、無関係であることが証明されていきます。経験豊かな活動家たちが、少なくとも価値判断から離れて気づくのは、自分たちこそが文化的・社会的バブルの中で生きているということなのです。実際、多くの労働者階級の黒人と白人は、しばしばほとんど問題なく交流していますが、彼らの交流、言語、行動が既存の左派文化に適合しないことがある、ということです。

 このような問題は、問題や人々の習慣や信念について、より思慮深く、地に足の着いた冷静な会話をすることで対処することができます。このような議論は、人々がBBQや家族のパーティーで行うことができますが、過激派が大学のセミナーや左翼会議で経験するようなものではなく、ましてツイッターやソーシャルメディアに投稿するようなものでもないのです。左翼にとって、相互学習や尊敬に満ちた交流は当たり前にありますか。私たちが書いたり、話したり、集まったり、キャンペーンをしたりするのは、そのような雰囲気なのでしょうか。

 さらに、単に「歴史の正しい側」にいるだけでは、継続的に仲間を増やし、維持するのに十分ではありません。左翼は歴史を変えていきたいと思わなければならない。左翼は勝ちたいはずです。左翼の実践はその願望を反映したものであるべきです。これは、労働者階級の人々を引き付け、維持するために必要なことでしょう。実際、彼らにとっては、少なくとも典型的な左翼の活動として、それ以外に理由はないのです。経験上、キャンペーンや運動、組織は、活気があり、創造的で、興味深い方法で成長し、しかも勝利を収めているものであり、そのようなプロジェクトに関わる多くの人々が長期にわたって関わり続けることができるものなのです。

 運動に参加しないのは悪いことだと人々に言うのは、勝利を引き寄せる戦略ではありません。習慣やマナー、嗜好を理由に人々を貶めることは、いかなる種類の変化にもつながりません。人々が何とかして生存パターンから抜け出し、革命的な反乱を起こしたり(まるでそれが理想であるかのように)、あるいは分別のある冷静な運動に参加したり(これは非常に良いことだ)することを期待して、事態がいかにひどいかを人々に叩きつけることは、有効な戦略ではありません。私たちが共有する痛みや私たちが提唱する道徳的美徳に絶えず訴えかけても、人々を運動に参加させる成功は限られ、その運動に参加させ続ける成功はさらに限られていきます。

 性善説を前提として行動するならば、善人であれという呼びかけをする必要はないでしょう。問題は、「何が実際に社会的利益を達成できるか」であって、「何が行動的に良いと判断されるか」ではないのです。人々は、その運動が真剣で、献身的で、規律正しく、アクセスしやすく、勝利の見込みがあると信じるならば、その運動に参加し、とどまるでしょう。そして、友人や家族を連れてくることを誇りに思い、熱望するならば、人々は運動に参加し続けるでしょう。

 では、なぜ運動が真剣で、献身的で、規律正しく、アクセスしやすく、勝利の見込みがあるとか疑うのでしょうか。人々がそれを疑う大きな理由が2つあります。

 もし運動が良い要求を持っていても、その運動があなたの町や職場や学校と同じように内部的に人種差別的であると思われるなら、そのコミットメントを疑う理由になります。もしその運動が、あなたの町や職場、学校と同じように性差別主義者だと思えば、やはりその取り組みに疑念を抱く理由になります。ごく少数の例外を除いて、運動はこの2つを理解しています。したがって、左翼における人種主義 と性差別の問題を明らかにし、その問題を伝え、対処し、のりこえることが重要であ り、それについて非難したり、効果のない点を指摘したりすることはできません。

 しかし、もしある運動があなたの町や職場、学校の中にあるのとと同じように階級主義的であるなら、これまた疑う理由になるでしょう。しかし、ほとんど例外なく、運動は左翼の階級主義の問題を特定せず、伝えず、克服したり超越したりするために対処しないのです。労働者階級の家庭出身者を全面的に参加させ、リーダーシップを発揮させないような運動は、構造的に階級主義的と言わざるを得ません。労働者階級の生活習慣を蔑ろにするような内部文化(趣味や嗜好)を持つ運動は、構造的に階級主義的です。労働者階級のニーズに対して無頓着な運動は、構造的に階級主義的です。そして、間違いなく最も重要なことは、内部的な役割構造が、メンバーを、他人のために決断する者と他人の決断に従う者に分けている運動が、構造的に階級主義的であるということです。これは、すべてのメンバーが階級主義者であることを意味するのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。しかし、たとえ運動が社会における階級関係に関して優れた理解とプログラムを持っていたとしても、労働者階級の男女が参加し、留まり、指導する可能性に影響を与える問題があるということでしょうか。もちろん、その通りです。このような階級主義的な特徴は、人々が参加しない、あるいは参加してもすぐにやめてしまう強力な理由になります。これらの階級主義的特徴のいずれか、あるいはしばしばすべてを備えていることは、運動が労働者階級の生活と要求を本当に理解していないこと、そして、深く労働者階級に依拠するプログラムを本当に持っていないことを意味するのです。

 運動に真剣に参加するには、私たちのコミットメント、時間、そして集中が必要です。それは、家族や友人との緊張を伴うかもしれません。仕事や抑圧を危険にさらすことさえあるかもしれません。仮に誰かが上記の障壁をすべて克服できたとしても、士気を低下させ、最終的に解離を引き起こすもう一つの要因が残っています。左派に留まることに不利に働くのは、長期的なビジョン――オルタナティブな世界が達成可能であるという信念があまりに乏しく、それがどのようなもので、それを求めることが何をもたらすのかを明らかにすることにほとんど時間を費やさない運動に身を置いていることです。そこに到達できないのなら、なぜ悩むのでしょうか。

 運動は、既存の制度や関係がいかに強力であるかを説明するのに、非常に説得力のある仕事をする傾向がありますが、最近の改善にもかかわらず、別の世界が可能であることを論証する仕事はほとんどしていないのが現状です。献身的な活動家は、別の世界が可能であると信じています。そして、自分たちが闘っている運動やプロジェクト、キャンペーン、問題が歓迎され、深く結びついていると感じられれば、人々はもうひとつの世界を実現するために進んで闘うということを歴史が示していると信じています。それを実現するためには、私たち左翼の全員が、このエッセイで取り上げた障壁をはじめ、さらに多くの障壁を克服する必要があるでしょう。

著者について

マイケル・アルバート Michael Albert

米国の批評家。1960年代に急進的な活動に参加。当時から現在に至るまで、彼の政治的関与は、地方、地域、全国的な組織化プロジェクトやキャンペーンから、サウスエンド・プレス、Zネットの共同設立、これらプロジェクトでの活動、各種出版社への執筆、公開講演など多岐にわたる。著書に『No Bosses: より良い世界のための新しい経済』(No Bosses: A New Economy for a Better World)『未来へのファンファーレ』(Fanfare for the Future)『明日を忘れない』(Remembering Tomorrow)『希望を実現する』(Realizing Hope)『パレコン:資本主義後の人生』(Parecon: Life After Capitalism)など(いずれも邦訳未刊行)。

Left Culture and Movement Prospects” by Michael Albert and Bridget Meehan.

This article is republished from Znet under CC BY-NC 4.0 Int.

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