目次
第三 党の問題
一 第六回党大会以後の諸問題
(一)第六回党大会から一九五〇年までの活動
第六回党大会は、戦後の国際政治における二つの陣営の対立がますます明確になりつつあった時期にひらかれた。アメリカ帝国主義は、トルーマン宣言、マーシャルプランによって、武力とドルを背景とする「力の政策」を公然化した。日本では、直接に占領軍の権力を行使して、二・一スト禁止以来の反動政策、すなわち、労働者階級への弾圧と賃金抑制政策を強化し、日本をソビエト、中国にたいする軍事基地とするために、活する政策をとりはじめた。
第六回党大会は「ポッダム宣言の完全実施」【ママ】「日本の完全独立」を行動綱領の最初にかかげた。党はこの方針にもとづいて、民族独立、人民の生活と権利をまもるために頑強にたたかった。その結果党は賃金引上げと弾圧反対のための労働組合の闘争を組織し指導した。強権供出と重税に反対する農民の闘争や、中小商工業者の不当課税反対の闘争を組織した。青年と婦人の運動を組織することにも成功した。
このような活動のなかで、党が影響力をもっていた当時の労働組合運動の主力であった産別会議や、日本農民組合内にあらわれていた敵の分裂工作とも積極的にたたかった。
これだけでなく、党は産別会議を中心に全労連の強化に努力し、国際的労働組合組織と結びつけ、労働運動の国際的連帯を強化することに貢献した。四八年三月には、『民主民族戦線』を提唱し、社会党との提けいには成功しなかったが、その他の多くの民主団体を民主主義擁護同盟に結集した。また平和擁護闘争の成長に積極的な役割をはたした。党の戦略や戦術のうえであやまりや不正確さがあったにもかかわらず、右のような大衆のなかでの熱心な活動によって、党は大衆の支持をうけ、大衆団体との結びつきをつよめ、党も量的に拡大した。工場、鉱山、その他の経営をはじめ、学校、農村にも細胞の建設がすすみ、大衆団体にも多くのグループを確立、数百名をこえる大経営細胞さえも組織した。さらに、社会党首班内閣ができ、これが保守政党内閣と変らぬ政策をとったために、同党の影響下にあった大衆が同党に失望して、その一部が共産党の支持にうった【ママ】。
かくして、一九四九年の総選挙で、党は三百万余の得票を得、三十五の議席を獲得した。これは党と大衆の結合の大きな前進であり、党が獲得した重要な成果であった。この勢力を背景にして、党は国会において、アメリカの占領政策や吉田内閣の売国的、反人民的政策をばくろ、追及し、人民の支持にこたえた。
中国革命の勝利、資本主義経済の不況の深まり、わが党と労働者階級の進出等々の事態に面して、アメリカ帝国主義の対日政策はますます狂暴化した。かれらは、「経済九原則」とそれにもとづく一連の財政、金融、労働政策によって日本独占資本の復活をいそぎ、他方では、労働組合、その他の大衆団体内での反共「民主化」運前【ママ】の組織、三鷹、松川等々一連の反共挑発事件、経営からの戦闘的労働者の追い出し、団規令、政令二〇一号等々によって、党と労働者階級にたいする攻撃をつめた。党は「経済九原則」の意義を正しく把握しなかったために、この政策の本質を人民にばくろして、労働者階級と人民を日本の独占資本に反対する統一行動に組織することができなかった。この点からこの時期に発表した党の一連の経済政策(各種の復興綱領等)にもあやまりがあった。
このようにして、党は、その反動勢力のはげしい攻撃にたいして有効にたたかうことができなかった。その結果、とくに、労働組合運動における指導的地位を失うにいたった。
どうして、このようなことがおこったか。それは闘争がはげしくなるにつれて、従来からあったつぎのような党の弱点や欠陥が拡大された結果であった。
第一に、戦後の国際情勢の変化のなかで、国際的革命運動の経験の摂取と、日本の現状分析に不十分であったためにアメリカ帝国主義の占領支配の性格と戦後の階級関係の複雑な変化について明確な評価をもたず、党の戦略的基本方針が不明確であった。
第二【ママ】、戦略的基本方針の不明確さとむすびついて、戦術においてもしばしば重大なあやまりをおかした。一方では、占領下の平和革命論にもとづく右翼的、合法主義的戦術がとられ、また、同時に他方では、小ブルジョア的あせりによる情勢と力関係の主観主義的評価からくる左翼日和見主義的戦術があらわれた。地域人民闘争、職場放棄、などがこれである。
党は、また、この時期において、組織原則上の最大なあやまりをおかした。
無原則的な「社共合同」や集団入党にあらわれたような、入党条件を厳密にしないために、不純分子の党への流入を許した。また、公開細胞会議や団規令にもとづく党員の届出など、重要な経営組織を不用意に敵前にばくろするようなあやまりをおかした。
第三に、指導体制のうえでは、戦後に党を建設する過程で家父長的個人中心指導が行われ、個人的権威主義と盲従主義に陥り、党内民主主義が保証されなかった。中央委員会内部においてはそれに批判をもつ同志もいたが、伊藤律、志田重男らによってそれが助長される中で、それらの党の欠陥を正そうとする意見は抑圧され、中央委員会は総体としてそのたたかいを有効に行うことができなかった。それによって不統分子の党機関への潜入と暗躍は一層容易にされ、そのために指導体制内部の対立はふかめられていった。
第四に、大衆運動の指導の面では、党の根づよいセクト主義のために、少数のグループを動かして、大衆を上からひきまわす傾向がつよく、深く大衆と結合することが弱かった。そのために党員が大衆と遊離する結果をうみ、敵の攻撃をうけるすきをつくった。たとえば、労働組合内で社会党員や組合幹部と敵の面前でみだりに対立してあらそい、党と労働組合、その他の大衆団体との正しい関係をうちたてる態度にかけていた。
第五に、党はマルクス・レーニン主義の思想と理論で党を武装することの重要性を軽視し、一般党員と幹部の系統的な教育をおこたった。そのために、党内の主観主義と経験主義が克服されず、あやまった方針や政策が適宜に是正できなかった。
以上のような欠陥は、当然、党と大衆との結合をよわめ、大衆団体との正常な関係を破壊し、党の指導性を失う結果をもたらし、党を孤立させることとなった。それは、反共分子の策動を許して、大衆団体を分裂させ、右翼化させる条件をつくった。
(二)一九五〇年から六全協までの活動
(1) 一九五〇年から六全協にいたる期間は、戦後の党活動のなかで、もっとも複雑で、苦難な時期であった。
一九五〇年六月にアメリカ帝国主義は朝鮮侵略戦争をはじめた。すでに前年の九月には在日朝鮮人連盟の解散をおこないまた五〇年一月一日の年頭書簡において、マッカサー【ママ】はわが党の非合法化に言及した。これらはすべて、アメリカ帝国主義が朝鮮戦争の準備にとかかっていたことを示すものであった。
このような情勢のもとで、一九五〇年一月初めに、「恒久平和のために、人民民主主義のために」紙上に「日本の情勢について」という論評が発表された。それはこれまでのわが党の指導方針のなかにあった右翼日和身主義的傾向にたいする適切な批判であり、助言であった。「論評」を契機として、党は、全党の意志の統一と固い団結のもとに、党の戦略方針を正しく確立する重大な任務に直面した。
このもっとも重要な期間に、党内の意見の対立が表面化し党の団結を保証することに失敗した。
一月十二日政治局は『日本の情勢について』にかんする「所感」を発表した。その内容は、国際批判の提起している問題点を戦略上の問題として正しく理解せず、誤りを犯す結果になった。その際、 二名の政治局員が「所感」に反対し、ついで三名の書記局員が反対した。「論評」をめぐる論争のなかで「所感」に反対するものが増加した。
一月十八日ひらかれた第十八回拡大中央委員会総会は、「論評」の「積極的意義」をみとめる決議とあわせて、「一般報告」を採択し、国際批判をうけいれる党中央の一致した態度を表明した。また野坂同志が自己批判書を提出することと志賀同志の提出した「一般報告草案にたいする意見書」を撤回することを確認した。
こうして「所感」は撤回される結果となったが、「所感」の処理についての明確な決定と率直な自己批判がなされなかったために、「論評」と「所感」にたいする基本的態度の問題をめぐって党内の対立が拡大した。それは、党の戦略方針の問題にとどまらず、徳田同志を中心とする戦後の党指導全般にたいする批判に発展した。このなかで、一方では、党の指導的幹部にたいする各種の打撃的な言動や無原則的な反対派活動があらわれ、明白な分派活動も一部にあらわれた。また他方では、批判にたいする官僚主義的な抑圧と「所感」に批判的意見をもつ指導的幹部にたいする無原則的な監視と排除の活動が一部の同志たちによっておこなわれ、幹部間の相互不信がつよまり、党内の対立と混乱が拡大した。
スパイ伊藤律はこれらのことを党破壊のために最大限に利用した。このような事態のもとで、「所感」に反対する統制委員会の更てつが強行され、党の団結と規律を保持すべき統制委員会は、その本来の任務をはたし得ないものになっていった。
こうした混乱のなかでも、党は十八中総の諸決議にもとづいて大闘争を指導し発展させるために努力した。三月には民主民族戦線綱領を発表し、これは、アメリカ帝国主義にたいする労働者階級と日本人民のたたかいをつとめる役割をはたした。また、この期間に党の団結をかためるための努力も若干の中央委員によってなされた。
四月末にひらかれた第十九回中央委員会総会は、党非合法化の危険をはらむ情勢のもとでおこなわれ、中央委員会の一般報告を承認し、綱領草案の処理について意見が一致した。そして、アメリカ帝国主義が党を非合法化する意図が明らかになった事態に対処して、全政治局員をはじめ全党員が一致団結してこれとたたかうことを決意した。
ところがその直後、政治局の多数は十九中総の決定と党の規約を無視して、「所感」に反対する同志たちを除外して、非合法体制の準備をすすめた。これは政治局と中央委員会の分裂の第一歩であった。このことは組織原則にてらして重大な誤謬であった。
このあいだにも、アメリカ占領軍と日本の独占資本にたいする労働者、学生の闘争はもりあがっていった。これにたいして集会、デモの禁止などの弾圧がくわえられた。
六月六日、わが党の中央委員にたいするマッカーサーの公職追放がだされた。翌七日にはアカハタ編集部員十七名が追放された。この弾圧にたいして政治局の多数は、この命令の執行には二十日の猶余があったにもかかわらず、その間に政治局や中央委員会を開き、意志の統一によって、これと断固としたたかう処置をとらずに、意見を異にする七人の中央委員を排除して、一方的に非合法体制に移行した。六月七日に臨時中央指導部が任命され、「中央委員の追放にともない、中央委員会の機能は実質上停止のやむなきにいたった」との声明がだされた。これによって第六回大会で選出された中央委員会は統一的機能を失い、事実上解体されてしまった。このことは重大な誤りである。
六・六追放令の直後から若干の中央委員は中央委員会の機能の回復と中央委員会の開催を要求したが、これらの意見は無視されただけでなく、かえって、これらの同志にたいする除名カンパニアや圧迫が組織された。
中央委員会の解体と分裂は、全党の分裂に発展し、拡大されていった。不正常な各種の対抗手段が相互にとられた。「分派活動の全貌」その他による大量の除名がおこなわれ、他方、排除された組織の側からの逆除名も一部におこなわれた。党の分裂はいくつかの大衆団体の分裂に波及し、大衆運動指導に不統一と混乱を拡大した。こうした混乱のなかで「日本共産党国際主義者団」や「団結派」などの分派的グループが結成された。
七名の中央委員は、このような事態にあたって、中央委員としての責任において、中央委員会および全党の原則的統一のためにたたかうという基本的な立場から事態を収集するために協議した。その結果、明白な分派活動をおこなっていた一部の極左分子を除いて、十余の府県組織といくつかの大衆団体グループをその指導下に結集し、公然機関として全国統一委員会をつくった。
九月三日、中国共産党機関紙「人民日報」は、「今こそ団結して敵に当るべきときである」という社説を発表した。九月十一日、全国統一委員会は、臨中に統一を申し入れた。十月三十日には、統一委員会は、中央委員会を統一するという原則に立って統一の実現を促進するという配慮のもとに、みずからその組織を解消する措置をとった。そして、中央委員会、政治局の機能の回復をかさねて提案したが、臨中側は、中央委員会の解体その他の既成事実の承認という建前からこれを拒否した。
この間、六月二十五日、アメリカ帝国主義は、朝鮮民主主義人民共和国にたいする侵略戦争を開始した。わが国は、その前進基地とされ、労働者階級と勤労人民は軍事的な抑圧とひどい搾取にさらされた。アカハタをはじめとする数千の党機関紙の発行禁止、集会、デモの禁止、全労連の解散、重要経営と労働組合からの共産党員と支持者の追放などの弾圧がおこなわれた。
党は不幸な分裂状態におかれていたが、それぞれの党機関と党組機はアメリカ帝国主義の朝鮮にたいする侵略戦争に公然と反対し、困難な状態のなかで平和と独立、民主主義をまもるために積極的・英雄的にたたかい、部分的であったが戦争に反対する闘争を指導した。とくに基地労働者や運輸労働者のあいだに抵抗闘争を組織した。また、平和署名運動を発展させた。こうして平和と独立の大衆的運動の基礎をきずき、民主主義と人民の生活をまもるたたかいを推進することに貢献した。これは、わが党の誇るべき伝統の継承である。
しかし、党の分裂と混乱のもとで、党は、大衆運動にたいする統一的な指導をおこなうことができず、闘争を強力に発展させることができなかった。さらに、レッドパージその他の弾圧にたいして有効にたたかうことができず、経営細胞の大部分が破壊され、労働組合運動にたいする指導力が極度によわめられた。
以上のような分裂状態のもとで、一九五一年二月、第四回全国協議会がひらかれた。四全協は「当面の基本的闘争方針」「規約草案」「分派主義者にたいする決議」を決定し、新らしい指導部をえらんだ。これらのなかで、極左冒険主義的政策をうちだすとともに「スパイ分派の粉砕」、「中道派との闘争」として、統一を主張していた同志たちへの闘争を強調した。四全協は、党が組織的に分裂している状態のもとで一方的にひらかれたもので、正常なものではなかった。それは、第六回大会の中央委員会や規約の無視によって、党の分裂状態を決定的に固定化した。統一を主張していた中央委員たちは、四全協は党の分裂の一方的な固定化の試みであり、これによって統一のための闘争は新段階に入ったとみなして、公然機関を再建して全国統一会議を組織する方向にすすんだ。こうして、党中央と全党組織の分裂状態は長期化し、両者のあいだにはげしい批判と攻撃がつづけられた。
アメリカ占領者が、単独講和の方針を明示してきたとき、党の分裂状態にもかかわらず、それぞれの党機関と党組織は単独講和に反対し、全面講和の運動を積極的に組織した。またストックホルム・アピール六百四十万、ベルリン・アピール五百七十万の署名をあつめることを助けた。これは、今日の広範な平和擁護闘争の基礎となった。
それにもかかわらず、二つの組織が公然と対立抗争する党の分裂状態は、大衆の不信と批判をうけ、党勢力は急速に減退した。
このような事態のもとで、四全協指導部の間に従来からの戦略や指導上の誤りが自己批判されはじめた。これらのことが分裂した双方のなかに統一への機運をつくりだし、両者の統一のための話し合いもすすんでいった。八月十四日のモスクワ放送を契機として、全国統一会議の結成を準備していた中央委員たちは下部組織を解体して、臨中のもとに統一する方向にすすんだ。
だが、四全協指導部は、これらの組織に属していた人びとに、分派としての自己批判を要求し、そのため復帰も順調に進まなかった。このような態度は基本的には六全協にいたるまで克服されず、党内問題の解決をおくらせる主要な原因となった。
一九五一年十月にひらかれた第五回全国協議会も、党の分裂状態を実質的に解決していない状態のなかでひらかれたもので不正常なものであることをまぬがれなかったが、ともかくも一本化された党の会議であった。
五全協で「日本共産党の当面の要求――新綱領」が採択され発表された。これは、日本がアメリカ帝国主義の直接的支配のもとに従属していること、その支柱としての日本独占資本の売国的役割を明らかにした。そして、この状態からの解放のために、労働者階級を中心に、幅広い民族解放民主統一戦線の結成を訴え、この闘争の先頭にたって統一戦線の結成のために奮闘することを、わが党の基本任務と規定した。この綱領には若干の重要な問題についてあやまりをふくんでいたが、しかし、多くの人びとに深い感銘をあたえ、かれらのたたかいを鼓舞し、激励した。
この方針にもとづいて、党は、アメリカ帝国主義と日本の反動勢力にたいするたたかいを積極的にすすめた。吉田政府の破壊活動防止法案に反対して、五二年三月、総評、労闘共催で弾圧法粉砕総決起大会が全国でひらかれ、のベー千万人以上の組織労働者がわが国最初の政治ストライキに参加した。党は、労働者を激励して各界の進歩的人士を組織労働者の周囲に結集することに努力との闘争の発展に積極的に貢献した。党は、また、子供をまもる会、主婦の会などの組織に積極的な活動をおこなった。
国際的な友好関係の強化、とくに日ソ、日中の国交回復、経済、文化の交流のために、党はつねにその先頭にたった。
このような大衆活動の面における党の貢献は、党員大衆の献身的な努力によるものであった。五〇年前後のレッドパージによって組合や経営から追いだされた同志たちをふくめて、党は、大衆との結合をつよめながら、経営細胞の再建のために活動した。
(2) 以上にのべたような党活動における積極的な面はあるが、しかし、六全協にいたるこの期間に、党は、極左日和見主義とセクト主義の方針と戦術をとるという重大なあやまりをおかした。
このあやまりの理論的、政治的基礎を、われわれはつぎの諸点に要約することができる。
第一、朝鮮戦争という切迫した国際的、国内的政治情勢のもとで、日本に革命的情勢が存在するというあやまった判断や敵味方の力関係における味方にたいする過大評価があったこと、すなわち、それは小ブルジョア的革命主義にもとづく主観主義的な情勢判断である。
第二、農地改革後の農村にたいするあやまった認識とも結びついて、日本の現状を正しくとらえることができなかった。すなわち、発達した資本主義国である日本が、アメリカ帝国主義の「全一的支配」のもとに、「植民地的従属」状態におかれている事実に注目することは正しいが、それを、アジアの旧植民地諸国のような単純な植民地的従属国であるかのように規定したことである。
第三、これと関連して、植民地従属国の解放闘争にたいする当時の国際的な理論と戦術をまちがって日本に適用した。
第四、このような政治方針のうえでの極左日和見主義的偏向は、社会党と社会民主主義者に打撃を集中するというセクト主義的戦術としてあらわれた。ところが、他の反面では、重光首班論にみられるような右翼日和見主義的偏向となって統一戦線の正しい発展をさまたげた。この右翼的なあやまりは、「民族資本」という規定のなかに大資本の一部をもふくめて、かれらの役割を過大に評価した結果、資本家政党の内部矛盾の本質にたいするあやまった評価と社会党にたいする打撃主義とがむすびついて、あらわれたものである。
第五、以上と関連して、統一戦線についての当時の党の指導方針の理解も未熟であった。わが国の現状では、さまざまな分野の大衆運動を全人民的な共同綱領のもとに結集するように努力すると同時に、社会党との行動の統一をうちたてることが、平和と独立、民主主義と社会進歩のための統一戦線を強固なものに発展させるうえで、決定的に重要であることを過小評価してきた。これは大きなあやまりであった。
党の政治、思想、組織方針の原則的なあやまりによって生じた党内の諸矛盾は集積され、一九五三年後半にいたってますます深まった。そして、つぎのような諸欠陥がでてきた。極左日和見主義による政策上の左右の動揺と、この指導にたいする党内外よりの批判と不信頼、分裂問題の未解決によるあやまった「分派主義者」という偏見の固定化とそれによる党内の相互不信、情勢の進展に適合しえなくなった半非公然体制の弱点の続出、志田重男を中心とする派閥的な個人中心指導体制と官僚主義の強化、党内民主主義の無視などである。
これらの党内の諸矛盾は、当時の党指導を根本的に検討し、全党の力を再結集すべき、きわめて重要な段階に到達していたことをしめしていた。しかし、その重大な課題にまちがった方法で対処し、党の弱点をいっそう深刻なものにすることになった。
一九五四年にはじまった第二次総点検運動は、こうした事情のもとでおこなわれた。一九五三年におこった非公然組織や活動家にたいする警察の追及による事故の続発、すくなからぬスパイ、堕落分子の摘発、なかでも、伊藤律の除名などは、党の防衛の必要を前面におしだした。この事実と重光首班論や四月選挙にたいする批判など、中央の指導や政策にたいする批判のたかまりと直接にむすびつけ、スパイ挑発者と「分派主義者」を摘発し、党から追放するための全党的な党内闘争をめざすものとして点検運動がおこなわれた。
過酷な査問やあやまった処罰がおこなわれた。決定にたいして批判定【ママ】、消極的態度をとるものにたいして非同志的な打撃的な処置がとられた。多くの誠実な同志を傷つけ、党から排除し幾多の犠牲を払わせ、あるいは党にうらみを残して党から去らせた。これらすべてのことがらは党内の矛盾を内攻させ、機関と細胞、党員相互の不信を助長し、党の団結と戦闘力をよわめ党の権威を傷つけた。
このような誤りはどこから生まれたか。
第一に、当時の党指導部における極左日和見主義の政治方針とむすびついた極端な官僚主義、個人指導にさけがたい無原則的なさい疑心である。半非公然という条件のもとで、党内の批判はおさえられ、下部組織と党員にたいして説得でなく命令と打撃の方法がとられた。理論上、政策の反対者や批判者を「新分派主義者」としてスパイ、挑発者と同一視した。その結果、同志的な批判によって解決すべき問題を容赦ない対敵闘争と混同して、打撃的な党内闘争を組織するあやまりをおかした。
第二に、上級から下級にむかって慎重におこなわるべき党の組織点検と、個々の事実にもとづいておこなわれるべきスパイ摘発闘争とを混同し、これを全国一斉に全党的運動としておこなったのである。
第三に、点検の基準とされた原則と規律は、政策と決定にたいする服従と非公然活動の規律だけであって、党の政策や機関の指導にたいする下からの批判や意見を抑圧したことにある。
第四【ママ】、しかも六全協後あきらかになったように、党指導の中心にいた志田、椎野らの党生活上の腐敗が、これらのあやまった指導体制の最深部において発生したのである。
第二次総点検運動の教訓は、党の分裂とその正当でない処理、政治方針のあやまり、個人中心指導と官僚主義、党内闘争や点検の方法の誤りがいかに大きな損害を党にあたえるかということである。そして、これらのすべての誤りの根源として、一九五〇年の党の分裂問題を正しく解決せず、党の分裂における家父長的個人指導の役割と誤謬を正当化し、その後のひきつづくあやまりとそれを生んだ指導体制への反省を妨げたことが、基本的なわざわいとなっていることを知る必要がある。
最後に、以上にあげたあやまった方針のもとに、これを実践した多くの党活動家と幹部は、大きな犠牲をはらった。これらの同志諸君は、きわめて困難な条件のなかで、身を危険にさらし、あらゆる物質的、精神的な苦痛にたえながら、党と革命の大業を一筋に信じて、英雄主義を発揮し、ある同志は身を犠牲にしてまで、その任務の遂行にあたった。これらの同志のなかには、僻地に定着して、党の影響をひろめるために積極的な役割をはたしたものもあった。これらの同志の大衆奉仕の精神、献身的な戦闘的な精神は、今後の党活動のなかで正しくうけつがれ、さらに発展させられなければならない。
これらの同志の努力は、決して無駄ではなかった。その努力のうえに、六全協がもたれ、また、その後における平和、独立、民主主 義、生活向上の大衆的闘争が発展しているのである。
(3) 一九五〇年のわが党の分裂は、わが党の歴史のなかでもきわめて不幸な出来事であった。それは全党に深刻な打撃をあたえ、党の力を弱めただけでなく、分裂した双方の誠実な同志たちに大きな犠牲をこうむらせ、また多くの大衆団体に分裂と混乱を波及させ、日本人民の闘争に大きな損害をあたえた。この分裂は、それまでのわが党のもっていたさまざな弱点に根ざしており、そこから教訓を学んで、将来ふたたびこのような不幸な事態をくりかえさないようにすることは、われわれの最も重要な任務である。
わが党は、一九二二年の創立いらい、一貫して、共産主義の未来を確信し、反動支配と戦争政策に反対し、労働者階級をはじめとする人民の生活の改善のためにたたかってきた。しかし一九五四年【ママ】の敗戦にいたるまで、党は天皇制政府によって非合法の状態におかれ、その野蛮な弾圧と迫害によって、党の組織はくりかえし破壊され終戦にいたる約十年のあいだは、全国的統一的活動をつづけることができなかった。このために終戦前の党は、その政治的、理論的、組織的活動の経験を十分に蓄積することができなかった。その組織もきわめて小さく、明文化された規約もなく、民主集中制の原則にもとづく党運営の経験に欠けていた。また党の大衆的基盤が弱かったために、しばしばセクト主義的、主観主義的偏向におちいった。
戦後、党は獄中から解放されたごく少数の同志を中心として再建され、窮乏と混乱のうちにおかれた労働者、農民その他の人民大衆の日常要求を守って、反動支配とたたかい、多くの成果をあげた。そして短期間に各分野の大衆運動の再建と党の陣列の拡大をすすめることができた。
だが、党の再建を指導した幹部のあいだには、その活動の時期、その理論的、政治的経験において断続的な差異があったにもかかわらず、それを集団的に検討して、戦後日本の新らしい情勢に適応し建設の基本的方針を確立することができなかった。そのために規約による党運営と正しい理論による指導が軽視され、党内民主主義と集団指導による相互批判と自己批判の党風がうちたてられず、党員の採用と幹部政策の基準も確立されなかった。党はまた戦後日本の現実にたいする明確な認識をもらえず、正しい戦略戦術を樹立することができなかった。
党員が増加し、党活動が発展するにしたがって、このような欠陥が除かれ、民主集中制と集団指導の原則による党の建設がすすめられなければならなかったにもかかわらず、かえって戦後の党再建のときからあった徳田同志を中心とする家父長的個人指導が強化され、伊藤律、志田重男のような人物が重用されるにいたった。そこから政策上の破たんも生じてきた。
情勢が有利であったあいだは、党は以上のような組織上、政策上の基本的な欠陥をもちながらも、党勢力は増大の一途をたどることができた。だが米日反動勢力の攻撃がつよまり、たたかいが困難になった一九四九年以降、戦略の不明確さは党内にさまざまな矛盾を発生させ、平和革命論の再検討の気運もおり、大衆運動の指導方針をめぐる対立と論争がつよまった。こうした論争は、民主集中制の原則にもとづいて正しく組織されるならば、党の理論水準をたかめ、政治路線のあやまりを正し全党の統一と団結をいっそうつよめるみのり多い結果に達すべきものであった。だが、家父長的個人指導のつよまっていたこの時期には、党内の意見の相違はそのような形で解決されなかった。反対意見は抑圧され、そのために中央の政治指導にたいする批判は内攻し、党の組織外でグループ的に研究、論議される正しくない傾向を党の一部に芽ばえさせた。これが五〇年の党分裂をもたらす基盤となった。
しかしこのような基盤があったとしても、党分裂の直接最大の原因が、当時の政治局多数による規約にもとづかない指導的幹部の排除工作と中央委員会の一方的な解体にあったことは明らかである、【ママ】アメリカ帝国主義者が朝鮮戦争を準備し、党と人民にたいする弾圧を強化しつつあったなかで、党が一致団結してこれにあたらなければならなかった。まさにその時期に、中央委員会の分裂と解体を阻止しえなかった責任は、第六回大会選出の中央委員全員が負わなければならない。そのなかでも六・六追放にあたって中央委員会を直接解体に導いた同志たちの責任はきわめて重大である。
党の分裂は党を人民から孤立させ、わが国の革命運動と党の発展に決定的な損害をあたえた。党の分裂を導き出したものは中央委員会の分裂と解体であった。こういう状態は、その双方に必然的に分裂的傾向を生み、党員間の対立と相互不信を激成し、敵の乗ずる間隙をつくり、スパイ、挑発者に策動の機会をあたえる。またあやまった指導方針をただすことをさまたげ、五〇年分裂以後の党活動の実践はそのことを実証している。いかなる事態に際しても党の統一と団結、とくに中央委員会の統一と団結をまもることこそ党員の第一義的な任務である。これが一九五〇年の党の不幸な分裂からわれわれの学ばなければならない第一の教訓である。
規約の精神にもとづく民主集中制と集団指導の原則が無視され、党の最高機関である大会が定期的にひらかれず、家父長的個人中心指導がおこなわれていたために、党内民主主義が保障されず、相互批判と自己批判にもとづく集団討議がなされず、反対に批判的意見をもつものが官僚主義に圧迫され不当に排除された。また他方には自由主義的打撃的傾向があった。これらのものが党の統一と団結を破壊する大きな原因になった。党の統一と団結をまもりぬくためには、いかなる場合にも規約を厳守し、規定されている大会その他の党会議を定期的に開き、民主集中制と集団指導の原則を貫くことが必要である。これがわれわれの学ばなければならない第二の教訓である。
党の統一と団結は、中央委員会内部の団結とともに中央と地方組織との団結によって確保される。中央委員会はつねに都道府県委員会、地区委員会、細胞との思想上、政策上、組織上の統一のために最善の努力をつくし、また地方機関と全党員は中央委員会の周囲に結集し、マルクス・レーニン主義の原則にもとづく正しい判断の上にたって、つねにその統一と団結のために積極的に協力しなければならない。これがわれわれの学ばなければならない第三の教訓である。
党内の対立と分裂を大衆団体内にもちこみ、その対立と分裂をもたらしたというあやまりは、基本的には分裂によって大局的な観点を失い、党と大衆団体を混同したところからきている。このことは大衆団体の正常な発展を破壊し、わが国の労働運動、農民運動、平和運動、青年・学生・婦人運動、文化運動などに大きな損害をあたえた。いかなる場合にも党の内部問題を党外にもち出さず、それを党内で解決する努力が必要である。これがわれわれの学ばなければならない第四の教訓である。
一九五〇年の分裂は、党の政治的、思想的水準が低く、理論が軽視され、党の思想建設が重視されていなかったところからおこっている。労働者階級をはじめとする人民大衆と結合し、マルクス・レーニン主義の理論とそれにもとづく正しい戦略戦術によって固く団結することこそ党の統一を確保するカナメである。中央委員会をはじめとする全党がマルクス・レーニン主義理論の学習を組織し、党の政治的、理論的水準を向上させるために努力することは最も重要な課題である。これがわれわれの学ばなければならない第五の教訓である。
これらの教訓に学んで、党を思想的に堅固な大衆的な前衛党として建設する任務は、労働者階級と日本人民の解放をめざす大衆的なたたかいと、かたく結合することによってなしとげられる。労働者階級と人民の利益を第一義的に重視することよって、党内闘争におけるあらゆるかたちのゆきすぎや無原則を反省する土台ができる。五〇年の分裂をもたらした党の欠陥は歴史的にも根深いものがあり、その克服には全党の長期にわたる努力が必要である。
われわれは一致団結して第七回党大会の諸決議を全面的に実践するたたかいにとりくみ、闘争の鉄火の中で党の諸欠陥を克服し、強大な党を建設し、民族民主革命の大業に向って前進しよう。
二 六全協後の党活動
一九五三年十月十四日、党創立以来一貫して党の旗をまもりつづけ、戦後の党再建後において党の先頭に立って積極的な役割をはたした徳田球一同志は客死した。その前後からわが党では指導的幹部の一致した努力によって五〇年以来の党活動の検討が行われ、そのうえにたってきびしい相互批判と自己批判がすすめられて、六全協決議にあらわれたような転換の方向が提起されるにいたった。党内の矛盾の激化と大衆の批判、大衆と結びついた党員や自覚的な同志たちの批判や実践もこの軽換の無視できない要因であった。
一九五五年七月の第六回全国協議会は、党史の上で、重大な意義をもつ会議の一つであった。
それは過去五年にわたる党の不幸な分裂状態を克服し、党の統一を回復する道をひらいた。一九五一年末から五二年七月にかけて集中的にあらわれた極左冒険主義とセクト主義を公然と自己批判し、党をマルクス・レーニン主義の思想で正しく建設することを強調した。党生活を支配していた家父長的個人的指導をあらため、党内民主主義と集団指導を確立する方向を明らかにした。
六全協は党に新鮮な民主的気風をふきこみ、党員の創意性をのばし、大衆活動の方法を根本的にあらためる道をひらいた。党と大衆団体の関係を正常化し、党と大衆の結合を深めて、統一行動と統一戦線を発展させ、大衆運動における党の役割をたかめる条件をつくった。
党は、六全協の決議にもとづいて、党生活と党活動の改善に着手し、人民のあいだに信頼と権威を回復しはじめた。党中央は、各種の大衆的な諸活動を指導した。全体として、六全協後の党活動は、より正しい方向への前進にある。
この時期における党の主要な活動については、その都度、その経過や成果と欠陥にかんして、中央委員会、その他の党中央の諸会議で報告または決議されているが、そのおもなるものを、つぎのように列記することができる。
民主勢力は小選挙区法案粉砕の闘争に成功して、参議院選挙にのぞんだ。党は、国会活動を軽視し、無原則的に党の候補をとりさげる、それまでのあやまった戦術を改め、統一戦線の原則による戦術をとり、新しい成果をおさめた。本年四月の衆議院選挙では、すべての選挙区で候補を立ててたたかった。その成績はふるわなかったが、党員と支持者と一体になって熱心に活動し、党の統一と前進のために役立った。
日ソ国交回復、日中貿易の促進、基地反対、平和の擁護、原水爆禁止、暗黒裁判反対、売春禁止、国会活動などの分野で、党の役割は増大し、党の独自活動と統一行動の関係も全体としては正しい方向にすすんできた。党は農民運動の再建と統一のために努力した。党は、売国的な条約の改廃と民族独立の大衆闘争に発展する方向を促進して、サンフランシスコ体制打破の要求を宣伝し、岸内閣打倒の運動を組織した。
党は日ソ間の領土問題、ハンガリー問題、ユーゴ問題で労働者階級の立場を堅持し、反動的な見解や修正主義とたたかい、プロレタリア国際主義をまもった。
党員数は五〇年以後相当減少したが、六全協以後経営内の労働者党員は漸増している。これは六全協後の積極的な党活動の結果である。
しかし、この期間の党活動にはなおさまざまな欠陥があった。
第一、六全協の決議は、全体として党の前進に積極的な役割を果したにもかかわらず、五一年綱領が完全に正しいと規定した。しかし、その後の党活動によって、五一年綱領にあやまりのあることが明らかになった。中央委員会はすでにその主要点を発表したが、そのあやまりから生まれた党の政治方針の不正確さは、党活動にいろいろな矛盾や動揺、停滞を生んだ。したがって、党中央委員会は、この綱領の改訂を提案する。これが本大会の主要議題の一つである。
第二、政治情勢と大衆運動の発展にたいする党の指導は六全協後、基本的には改められる方向にすすんだが、なお立ちおくれている点がある。情勢の変化と大衆運動の発展に応じてこれを正確に評価し、党の主要な政策を敏速に打出すことができなかった。またこれらの政策の指導と実行を積極的に組織し全党の力を結集してたたかう点で大きな弱さがある。
これとともに、六全協後の党の公然たる活動への転換にともなって、現実の階級関係を無視し、必要な組織上の配慮を十分に行わない傾向が一部にあらわれ、不必要に組織を敵にばくろして攻撃の機会をあたえた。
第三、六全協で強調された党の思想的建設をすすめる点で党の過去の理論的活動のあやまりを検討し、マルクス・レーニン主義を日本の現実に正しく適用し、これを創造的に発展させることがまだ弱い。ソ連共産党第二十回大会と、昨年十一月モスクワでひらかれた共産党・労働者党の諸会議で採択された二つの文書、およびその後に提起された理論的政治的問題を解決するための努力が不十分である。
また大衆闘争と結合した生々しい革命的情熱とマルクス・レーニン主義の理論によって武装された新幹部の養成は、党建設にとって不可欠の事業である。しかるに幹部養成施設が一部できただけで、これは系統的に実施されず、特に財政的な裏づけとこれの保証について積極的な計画がなされなかった。
第四、六全協前の誤りと関連して生じた複雑な諸問題の解決は、今後の党活動の発展にとってきわめて重要である。六全協以後中央委員会はそのための努力をしてきたが、なお不十分である。関連して党内には、党が現在おかれている条件を無視して性急にその解決を求める傾向と、その複雑さのためにこの解明をさけようとする傾向が生じた。この二つの傾向とたたかい、これらの問題の正しい解明と処理をおこなうことが必要である。
六全協でえらばれた中央委員会は、党の基本的な諸欠陥を改める方向で重要な任務をおび、できるだけの努力をしてきたが六全協そのものが歴史的な制約をもっており、中央委員会の人数が少数であったこととも関連して、中央委員会は十分にその任務をはたすことができなかった。したがって、本大会では敵にたいして不屈であり、党にたいして誠実である有能な指導的な同志を十分に結集して、中央委員会を構成することを提案する。
三 当面する党建設上の諸問題
(略)
1958年7月23日報告 8月1日採択 『前衛 臨時増刊 日本共産党第七回大会決定報告集』 1958年
画像:政治報告を行う野坂参三第一書記(当時) 『前衛 臨時増刊 日本共産党第七回大会決定報告集』 1958年
【資料】「日本共産党の50年問題について」(1957年 日本共産党第15回拡大中央委員会) 【3/17更新】日本共産党・党首公選主張した松竹伸幸氏除名の問題 当事者の発表と各種報道まとめ 党・松竹氏・鈴木氏・メディア各社