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【資料】「党内民主主義と指導の合議制」(全連邦共産党(ボ)第15回大会への中央委員会政治報告 1927年)

第十五回党大会報告

三、党と反対派

(一)党の状態

(略)

 わが党における党内民主主義の成長についても多くはのべまい。党内民主主義、真の党内民主主義、党員大衆の積極性の真の高揚、これらのものが、われわれのあいだで成長し、発達しつつあることを見ないのは、めくらだけである。民主主義についておしゃべりしている人たちがいる。しかし党内民主主義とはなにか? だれのための民主主義か? 民主主義ということを、革命から遊離した二、三のインテリゲンツィアが際限なくしゃべったり、機関紙をもったりなどする自由という意味にとるならば、このような「民主主義」は、われわれには必要がない。なぜなら、それは多数者の意志をふみつける、ほんの少数者のための民主主義だからである。これに反して、民主主義ということを、党員大衆がわが建設の問題を決定する自由、党員大衆の積極性の向上、党員大衆を党指導に参加させること、党員大衆のなかに自分たちが党内の主人だという感情が発達することという意味にとるならば、こういう民主主義なら、われわれはいまももっており、これは、われわれにとって必要であり、また、われわれは万難を排して、それをたえず発達させてゆくであろう。(拍手)

 党内民主主義とともにわれわれのあいだで指導の合議制が一歩一歩発展しつつあることについても、多くはのべまい。わが中央委員会と中央統制委員会とをとってみたまえ。これらはともに、二〇〇人ないし二五〇人の同志からなる指導的中心であって、定期的に集合してわが建設のもっとも重要な諸問題を解決している。それは、わが党がかつてもったもののうちで、もっとも民主主義的な、合議的に行動する中心の一つである。そこでどうなるか? われわれの活動のもっとも重要な諸問題の解決が、狭い指導層の手から、あらゆる建設部門やわが広大な国土のあらゆる地区ともっともかたく結合した、この広範な中心の手へとますますうつりつつあるということは、事実ではないだろうか?

 わが党カードルの増加についてもまた、私は多くはのべまい。この数年間に、わが党の旧カードルのなかに、主として労働者からなる、向上しつつある新しいカードルがいりまじっていったことは、あらそう余地がない。以前には、わがカードルは百、千の単位でかぞえられていたが、今日では万の単位でかぞえなければならない。最下部の組織から、すなわち職場や組の組織から、全同盟の最高部までたどってみると、その圧倒的多数が労働者からなるわが党カードルは、今日では十万はくだらない。これはわが党のきわめて大きな成長である。これはわがカードル全員のきわめて大きな成長であり、彼らの思想的=組織的経験の増大、彼らの共産主義的文化の成長である。

 最後に、くわしくのべる必要はないが、やはり指摘しておくべき問題がもう一つある。それはわが国の党外の労働者のあいだで、一般に勤労大衆のあいだで、また全世界の労働者のあいだで、一般に被圧迫階級のあいだで党の権威がたかまったという問題である。わが党が全世界の勤労大衆にとって解放の旗となり、ボリシェヴィキという名称が、労働者階級のすぐれた人たちにとって名誉ある名称となりつつあることは、いまではうたがう余地があるまい。

 同志諸君、だいたい以上が、党建設の分野でわれわれのおさめた成果の姿である。

 同志諸君、このことは、わが党内に欠陥がないということを意味するものではない。いや、欠陥はある。しかも重大な欠陥がある。この欠陥について数言のべさせてもらいたい。

 たとえば党組織による経済団体その他の団体の指導という問題をとってみよう。われわれのあいだではこの点で万事がうまくいっているだろうか? いや、かならずしもそうではない。われわれのあいだでは、地方ばかりでなく中央でも、しばしば問題が、いわば家庭的に、うちわで解決されている。ある組織の指導部員のイヴァン・イヴァンヴィチがたとえば重大な誤りをおかし、事を台なしにしたとしよう。ところが、イヴァン・フョドロヴィチは彼を批判しようとせず、彼の誤りを説明して彼の誤りをただそうとしない。というのは、「敵をつくり」たくないからである。誤りをおかし事を台なしにしたこと、――これは重大なことだ!――しかし、われわれのなかで誤りをおかさないものがあろうか? それで、きょうは私が彼イヴァン・フョドロヴィチを大目に見る。そして、あすは彼がイヴァン・イヴァノヴィチを大目に見るのだ。なぜなら、私もまた、まちがうことがないというどんな保障があるだろうか? くわばら、くわばら。誤りを見のがすことはわれわれの大事業をなしにすることだと言われているのだと? そんなことはどうでもいい! たぶんわれわれはなんとかしてきりぬけるだろう。

 同志諸君、これが一部の責任ある働き手たちの通例の考えである。

 しかし、これはなにを意味するだろうか? 全世界を批判し、マルクスのことばで言えば天をも襲うわれわれボリシェヴィキが、あれこれの同志の平穏を思って、自己批判をやらなければ、このことから、われわれの偉大な事業の滅亡以外に、なにも生じないことは、あきらかではないか? (「そうだ!」という声。拍手)

 マルクスは、かつてこう言った、プロレタリア革命が他のあらゆる革命とことなるのは、とりわけ、それが自分自身を批判し、そして自分自身を批判することによって強化する点にある、と〔『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』選集第五巻二八七ページ〕。これはマルクスの非常に重要な指示である。もしわれわれプロレタリア革命の代表者が、われわれの欠陥に目をとじ、問題を家庭的に解決し、誤りを黙認しあい、わが党組織内に病菌をいれるなら、――いったいだれがこれらの誤り、これらの欠陥をただすのか?

 われわれの建設のもっとも重要な諸問題の解決にあたって、この俗物根性を、この家庭主義をわれわれのあいだからとりのぞかなければ、われわれがプロレタリア革命家ではなくなって、きっとほろびさることは、あきらかではないか?

 誠実で率直な自己批判をやらず、自分たちの誤りを誠実に、公然とただすことを拒否するならば、われわれは前進の道、われわれの事業の改善の道、われわれの事業のあらたな成功の道を自分でとざすことになるのは、あきらかではないか?

 われわれの発展はなめらかな、全般的高揚の形ですすむものではない。いや、同志諸君、わが国にはいろいろな階級がある。わが国内には矛盾がある。わが国には過去がある。わが国には現在と未来がある。わが国にはそれらのあいだの矛盾がある。それでわれわれは、生活の波にのってすらすらと前進することはできない。われわれの前進は、闘争により、矛盾の発展により、これらの矛盾の克服により、これらの矛盾の暴露と清算によっておこなわれるのである。

 階級があるあいだは、われわれは、おかげさまでいまや万事うまくいっていると言えるような状態をもつことは、けっしてできないであろう。同志諸君、われわれのもとには、そんな状態はけっしてこないであろう。

 われわれの生活のなかでは、つねになにかが死滅しつつある。しかし、死につつあるものは、そのまま死ぬ気はなく、自分の生存のためにたたかい、自分の生命をおえた事業を固守している。

 われわれの生活のなかでは、つねになにか新しいものがうまれつつある。しかし、うまれつつあるものは、簡単にはうまれず、わめきさけんで、自分の生存権を主張している。(「そのとおり!」という声、拍手)

 古いものと新しいもの、死滅しつつあるものとうまれつつあるものとのあいだの闘争、――それがわれわれの発展の基礎である。ボリシェヴィキにふさわしいように、われわれの仕事の欠陥や誤りを指摘して、それを公然と、かつ誠実にばくろしてゆかなければ、われわれは前進の道を自分でとざすこととなる。そうだ、われわれは前進したい。そして前進したいからこそ、われわれは、誠実な革命的自己批判をもっとも重要な任務の一つとして提起しなければならない。そうしなければ前進はない。そうしなければ発展はないのである。

 しかし、ほかならぬこの点で、われわれのあいだでは万事がまだがたがたなのである。それどころか、いくつかの成功があれば、それで欠陥をわすれ、安心してうぬぼれてしまう。二、三の大成功があれば、なにごとも軽く考える。さらに、二、三の大成功があれば、「やすやすと勝てる!」とうぬぼれる。しかし誤りはのこり、欠陥は存続していて、わが党組織の内部に病菌がはいりこみ、党は病気になりはじめる。

 第二の欠陥。それは命令主義的方法を党内にもちこみ、党内で決定的意義をもつ説得の方法を、命令主義的方法にかえることである。この欠陥も第一の欠陥におとらず注目すべき危険である。なぜか? なぜなら、それは、自主的に行動する組織であるわが党組織を、内容のない役所ふうの機関にかえてしまう危険をうみだすからである。わが国には、あらゆる経済機関や協同組合機関や国家機関にちらばっていて、そこで官僚主義とたたかっている、六万のきわめて積極的な働き手がいることを考えるとしても、彼らの一部がこれらの機関で官僚主義とたたかいながら、ときには自分も官僚主義に感染して、党組織に官僚主義をもちこむこともあることを、みとめなければならない。同志諸君、これはわれわれの罪ではなく、不幸である。というのは国家が存在するかぎり、こうした過程は大なり小なりの程度でつづいてゆくからである。そして、この過程が現実のうちにいくらかの根をもっているからこそ、そのためにこそ、それらの欠陥とたたかうために武装し、党員大衆の積極性をたかめ、党員大衆をわが党指導の問題の解決に参加させ、党内民主主義を系統的にうえつけ、わが党の実践における説得の方法を命令主義的方法にかえることをゆるさないようにする必要があるのである。

 第三の欠陥。その欠陥は、多くのわが同志諸君が、見通しもなく、未来を見つめることもなく、流れにのっておよぎたがっていて、そのため周囲にお祭気分が感じられ、わが国ではまいにち盛大な会合がひらかれていて、どこでも拍手がおこり、そして、まるでわれわれのひとりひとりが順番にすべての幹部会の名誉会員となっているかのようであるという点にある。(笑い声、拍手)。

 いたるところでお祭気分を見ようとするやみがたいその希望、飾りたてようとする熱望にひかれ、必要なものであろうと、不必要なものであろうと、ありとあらゆるお祭さわぎをしようとする熱望、どこへゆくことになるかを見さだめずに、およげるかぎりおよごうとするこの希望(笑い声、拍手)――すべてこうしたことは、わが党の実践にある第三の欠陥の本質であり、我が党の日常生活におけるわれわれの欠陥の基礎をなしている。

 諸君は、額に汗をながしながら一生懸命にこいでいるが、流れが自分をどこへつれてゆくかを知らないこぎ手を見たことがあるだろうか? 私はこんなこぎ手をエニセイ河で見たことがある。それはまじめな、疲れをしらないこぎ手であった。しかし、彼らが、波にうちよせられて岩にあたり、そこで難破するかもしれないことがわからず、またわかろうともしないところに、彼らの不幸がある。

 一部のわが同志諸君もこれとおなじ状態にある。手をやすめずにまじめにこいでおり、流れにまかせて、すらすらと航行しているが、彼らは、どこへつれてゆかれるかを知らないばかりか、知ろうとさえしない。見通しなしの活動、かじも帆もない活動、――どうしても流れにのっておよごうとする希望は、こういうことになる。

 結果はどうか? 結果はあきらかである。彼らは、はじめかびがはえ、つぎに鈍物となり、つぎに俗物根性のどろにはまりこみ、そして、つぎに俗物になる。これこそ真の変質の道である。同志諸君、私がそれについて若干の苦言を諸君に述べておきたかった、わが党の実践に見られる、われわれの党生活に見られる、いくつかの欠陥は、以上のようである。

全集刊行会訳『スターリン全集』第13巻 大月書店 1953年
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