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山川均(やまかわひとし 1880~1958)

現在の倉敷市生まれ。同志社中学を中退して上京、1900年に守田有秋と『青年の福音』を発刊し、論文が不敬罪に問われる(同罪史上最初の適用)。06年日本社会党に参加、日刊平民新聞の編集に携わる。赤旗事件で投獄されたため大逆事件の難を逃れる。16年堺利彦の売文社に参加、上京し普選運動。21年の日本社会主義同盟結成、22年の日本共産党結成に参加(水曜会・大森派グループ)、総務幹事。「無産階級運動の方向転換」を著した(山川イズム)。

第一次共産党事件で検挙され、解党を支持共同戦線党論を掲げるとともに、堺、猪俣津南雄らとともに『労農』を創刊し「労農派」を形成。社民勢力左派の立場から無産政党の運動に携わるも、運動の右傾化を阻止できないまま37年人民戦線事件で検挙。

戦後は日本社会党には参加せず、社共合同を推進する立場から民主人民戦線を結成するも成らず。その後は分裂時の社会党左派の理論的支柱となり、51年には大内兵衛とともに社会主義協会を結成した。58年すい臓がんで死去。

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