「五〇年問題について」は、いわゆる日本共産党の「50年問題」についての総括文書です。この文書は1957年11月5日に行われた「第6回全国協議会」選出の中央委員と、分裂前の第6回大会で選出された中央委員、中央委員候補、統制委員の合同会議である第15回拡大中央委員会において全員一致をもって採択され、発表が決議された報告要旨です。後に第7回大会において行われる50年問題の総括はこの文書の基本点に立脚したものです。
五〇年問題について
この報告要旨は現中央委員会と第六回党大会選出の中央委員、同候補、統制委員の合同会議において慎重に討議され、全員一致をもって採択され、この発表を決議したものである。
一九五〇年のわが党の分裂は、わが党の歴史のなかでも非常に不幸なできごとであった。それは全党に深刻な打撃をあたえ党の力を弱めただけでなく、分裂した双方の誠実な同志に大きな犠牲をこうむらせた。また多くの大衆団体に分裂と混乱を波及させた。
一九五五年七月にひらかれた第六回全国協議会は、この問題を根本的に解決し、党の統一と団結を回復することを決議した。この決議にもとづく全党の実践にもかかわらず、今日なおすくなからぬ未解決の問題を残しており、党の統一についての障害となっている五〇年問題の原則的な分析と評価をおこなうことは、この状態を解決するためにかくことのできない課題となっている。
一九五六年一月にひらかれた第四回中央委員会は「党の統一と団結のための歴史上の教訓として」において「この問題を事実問題としても、また理論問題としても正しく詳細に分析するにはなお十分な研究と相当の時間が必要である」と書いたが、その後中央委員会は、ひきつづき五〇年問題の原則的な検討をつづけてきた。そこで今日までの到達点にもとづいて、その総括をおこない、全党の統一と団結をかためるために、その基本点を報告する。
一、三十五年前にわが党が創立されてから一九四五年の日本帝国主義の敗戦にいたるまで、党は天皇制政府によって、一貫して非合法の状態におかれ、その野蛮な弾圧と迫害のもとで闘ってきた。党の組織はくりかえし破壊され、多くの同志が逮捕投獄された。天皇制の監獄はこれらの共産党員を内外の情勢と革命運動の不断に発展した状態から孤立させた。それだけでなく、渡辺、市川、国領、岩田、野呂その他多くのすぐれた同志は、権力の手によって直接、間接その生命を奪われた。一九三四、五年以後は党はうちつづく弾圧のため侵 略戦争の末期の約十年近いあいだ、全国的統一的活動をつづけることができなかった。そのためにこの間、他の国々の共産党がおこなったように国際的経験に学び、かつ自国の党活動と革命運動の継続のなかで、党の政治的、理論的、組織的経験を統一的に蓄積することがほとんどできなかった。そのために党の指導的幹部のあいだに理論と経験における断層が生じていた。また党の組織はきわめて小さく、明文化された規約による大衆的な党組織の運営の経験に欠けていた。戦後の党の再建にあたって、これらの弱点の克服の必要が十分自覚されることなしにひきつがれた。
戦後の党活動はごく少数の獄中から解放された同志を中心として再建され、窮乏と混乱におかれた労働者、農民をはじめ各層の日本人民の日常要求を守って、天皇制と軍国主義にたいしてたたかい多くの成果をあげた。そして短期間に各分野の大衆運動の再建と党の陣列の拡大をすすめることができた。
だが、時期を異にして活動したこれらの指導的幹部の間には理論と経験において断層的な差異があったにもかかわらず、これらの点について集団的な検討をくわえ、戦前の党活動を総括して戦後の党建設の基本方針を確立する努力が十分にはなされなかった。
党は、当時戦後日本のおかれた新しい情勢にたいして明確な認識をもちえず、日本を占領しているアメリカ帝国主義の軍隊を解放軍とみるような誤りを犯した。したがって、党は明確な戦略をもたず、そのため事態に対応する戦術と組織方針をもつことができなかった。また党生活を正しい原則の上に確立していなかった。規約の軽視、党内民主主義と集団指導の欠如、相互批判と自己批判の党風の欠陥、党員の採用と幹部政策の基準の不確立などの欠陥があった。したがって、党は、理論の権威によって全党を正しく指導するという点で、また、党をマルクス・レーニン主義の原則にもとづいて建設するという点においてもいくたの欠陥をもたざるをえなかった。
戦後の激動する情勢は、大衆運動を組織し、指導する有能な組織者と扇動家を要求していた。長い獄中生活をたたかいぬいてはきたが、そのために当時健康を犯されていた試練ずみの指導的幹部は軽視され、新しい幹部の登用が大胆におこなわれるなかで、無原則的な幹部政策が党にもちこまれた。党歴に欠陥があり、はじめから疑いがもたれていたにもかかわらず「才能」があるという名目で、伊藤律、水谷孝のごときが重用されるにいたったのはその顕著な一例である。
徳田同志は、戦後の党再建の当初においては、かなり集団指導を重んじていた。また、そのすぐれた組織力と行動によって、党の拡大と大衆闘争の指導においてきわめて大きな役割を果たした。だが徳田同志は書記長として、また組織活動指導部の責任者として、党のあらゆる問題の指導が一身に集中される機関運営のもとで、次第に家父長的個人中心指導の傾向をつとめた。政治局、書記局の運営は、徳田同志の専決で推進されることが多くなった。政治局と書記局のなかにも機関の集団指導をかためるよりも、むしろ徳田同志の専決を助長する権威主義がつよかった。機関の構成においても書記局員が政治局で多数をしめるようになっていた。また大会と大会との間の党の最高機関である中央委員会の役割が軽視されていた。
個人中心指導のさけることのできない結果として、機関の集団指導は軽視され、徳田同志を中心とする指導的グループが形成されていった。伊藤律は、こうした党の条件を出世主義者特有の敏感さでとらえ、徳田同志にとりいった。彼は自己の地位をかためるために、幹部間の不和を拡大することを意識的におこなった。幹部政策は個人的な基準によってゆがめられ多くの同志が不当に疎外された。伊藤律の行動を批判し、これを会議で問題にする同志は、抑圧されるか「政治的にひくい」という決定をされた。統制委員会は再三にわたって伊藤律の規律違反を政治局に提起したが、この意見は採択されず、さいごには統制委員の多くが、伊藤律問題についても徳田同志らと同調するようになった。こうして、徳田同志を中心とする家父長的個人指導の体制は派閥的傾向をつよめ、党中央の団結に重大な危険となっていた。
徳田同志は、若くして革命運動に参加し、一九二一年にはモスクワでひらかれた極東民族大会に日本代表の一人として参加し、日本の共産主義運動を国際共産主義運動とむすびつける役割を果たした。一九二二年わが党の創立に参画し、中央委員にえらばれ、わが党の建設と労働運動の発展に貢献した。一九二五年、党が解党の危険にみまわれたとき、渡辺政之輔同志とともに党再建ビューローの一員として党の組織と伝統を守った。一九二八年三月のいわゆる三・一五事件で検挙された徳田同志は佐野、鍋山らの裏切りに反対して市川、国領、志賀の諸同志とともに法廷闘争を指導し、一九四五年十月、日本帝国主義の敗戦によって獄中から解放されるまで一貫して党の旗を守りぬいた。解放後も党再建の先頭にたって積極的な役割をはたした。
だが家父長的個人中心指導の確立するにつれて、その性格における否定面を増大させた。個人の権威によって党を指導することのさけがたい結果として、指導者の無謬性にたよら ざるを得ない。ここから自己の指導の誤りを下部に転嫁し、相互批判と自己批判をさける官僚主義が成長した。アメリカ帝国主義の反動政策がつよまり、闘争が困難になった一九四九年以降、徳田同志の党指導における粗暴で節度に欠ける態度がはなはだしくなり、党の機関の民主的運営をいちじるしく害するまでにいたっていた。これは党の作風に否定的な影響をあたえた。
情勢が有利の間は、党は以上のような政策上、組織上の基本的な欠陥をもちながらも、党勢力は増大の道をたどることができた。だが米日反動勢力の攻撃がつよまり、闘いが困難になった一九四九年以降、戦略の不明確さは党内にさまざまな矛盾を発生させ、平和革命論の再検討の気運もおこり、大衆運動の指導方針をめぐる対立と論争が強まった。こうした論争は、民主主義的中央集権の原則にもとづいて正しく組織されるならば、党の理論水準をたかめ、政治路線の誤りを正し、全党の統一と団結をいっそうつよめるみのり多き結果に達すべきものであった。だが家父長的個人指導の強まっていたこの時期には、党内の意見の相違はそのような形で解決されなかった。反対意見は抑圧された。そのために、中央の政治指導にたいする批判は内攻し、党の組織外でグループ的に研究、論議される正しくない傾向を党の一部に芽ばえさせた。
一九五〇年の恒久平和紙の「論評」をきっかけに起こった党の混乱と分裂はこのような党内矛盾の集中的なあらわれであった。
二、一九五〇年一月初めに発表された恒久平和紙の「論評」はその批判の方法において節度と慎重さをかくものであったが、その内容は、右翼日和見主義の傾向におちいり、重大な危険にさらされていたわが党にとってきわめて適切な助言であった。「論評」を契機として党は、民族独立のための闘争方向と平和革命論の矛盾を正し、日本人民解放闘争における戦略上の不明確さを解決し、党の政治路線を正しく確立する重大な転機になった。朝鮮戦争を準備していたアメリカ帝国主義のわが党にたいする弾圧のつよまる条件の下で、この重大な転換を成功にみちびくためには全党の意志の統一と固い団結による賢明な処置が必要であった。したがって、当時の党中央全体がこの転換の重大な意義を正しく理解していたならば「論評」と全党の団結のわかちがたい重大さをみずからの実践によって全党にしめさなければならなかった。このためのある程度の努力はおこなわれたが、ついに中央の団結を保持することに失敗した。これにいたる経過にはつぎのようなことがらがおこった。
① 一月十二日政治局は「『日本の情勢について』に関する所感」を発表した。二名の政治局員が「所感」に反対し、ついで三名の書記局員が反対した。「所感」は国際批判の提起している問題点を戦略問題として正しく理解せず、明らかに誤りであった。
「論評」をめぐる論争のなかで「所感」に反対する論者が増加した。論争が無原則的に逸脱することを制し、全党の意志を正しく結集するためには、党中央の団結と集団指導が必要であった。だが、家父長的個人中心指導はこの重大な時期にその欠陥を全面的にあらわした。徳田同志は、批判を自己の権威をきずつけるものとしてこれをにくみ、批判者を敵視し、これを排除する態度を強めた。それは所感に賛成しない同志たちに対する官僚的行政的抑圧と非組織的な排除工作としてあらわれた。
② 一月十八日にひらかれた第十八回拡大中央委員会総会は「論評」の「積極的意義」をみとめる決議とあわせて「一般報告」を採択した。また野坂同志の「私の自己批判」を採択し、志賀同志の提出した「一般報告草案にたいする意見書」の撤回を確認した。国際批判をうけいれる党中央の一致した態度が表明された。これは、党の統一をのぞむ全党の意志を代表するものであった。「所感」は撤回される結果となった。だが所感の処理についての明確な決定と率直な自己批判がなされなかった。徳田同志らは「所感」を弁護する態度をとりつづけた。
論評をめぐる論争は、党の戦略コースをめぐる問題にとどまらず「所感」にたいする批判とからんで、徳田同志を中心とする戦後の指導全般にたいする批判に発展していった。
このなかで、党の指導的幹部にたいする各種の打撃的な言動や無原則的な反対派活動があらわれた。また、明白な分派活動もあらわれた。
③ 二月、野田同志らのグループによって「志賀意見書」に徳田書記長を追放せよとの前書きをつけた文書が党内外に配布された。野田同志らは、十八中絵の諸決議に反対し、すでに、本部労対、労働組合グループ、国会秘書団の一部の同志らと分派的な会合を組織し、その中核として政策研究グループ、組織活動グループを形成していた。「志賀意見書」のほか「民族主義者の新らしい策謀について」「民族主義者の新らしい偽瞞について――その民主民族戦線へのアピールに批判」など中央の諸決定を批判する文書を発行して自己の影響力をひろめる活動をつづけた。これは、党の上に個人をおき、党の規律を無視する小ブルジョア個人主義の思想にもとづく明白な分派活動であった。
野田同志らの分派活動は、党内に不安と相互不信の感情をつよめた。スパイ伊藤律、山名正美らは、事態を混乱と分裂にみちびくために策動した。とくに伊藤律は中央機関紙の編 集責任者の地位を利用して、中央機関紙を党の団結の武器としないで分裂の雰囲気を醸成するように悪用した。
「志賀意見書」はその内容においてこれらの分裂主義者に利用される弱点をもっていた。志賀同志が中央委員会で撤回した「意見書」を野田同志に貸したことは党の規律に違反する行為であった。これは幹部の間に相互不信の感情をつよめる一つの要因となった。
④ こうした条件の下で、徳田同志らによる批判的意見をもつ指導的幹部にたいする監視と排除の活動がつよめられた。そのさい「志賀意見書」の配布が、このような処置を正当化 する名目ともなった。長谷川同志は徳田同志と伊藤律から志賀同志をおとせと指示され、二月二十四日の関西地方委員会に提案して否決された。志田重男は原田長司同志に中国で志賀排撃をやれといって中国地方委員会から拒否された。山本斉同志は、伊藤律から宮本同志を敬遠するように要請された。保坂同志は伊藤律から春日庄次郎同志を監視するよう命ぜられた。
これは、批判者はすべて敵と見る個人中心指導におけるさけがたい派閥的偏見によるものであった。
このような事態のなかで、党の団結と規律を保持すべき統制委員会は、その本来の任務を果たし得ないものになっていった。十八中総をまえにして、統制委員会の多数は「所感」に賛成する立場をとった。大会で中央委員と統制委員を兼ねて選出され、政治局員を兼ねていた統制委員会議長宮本同志は「所感」に反対していたが、十八中総後、政治局の多数決によって九州地方へ長期出張を命ぜられ、統制委員会の事実上の責任者は「所感」を支持していた椎野同志におきかえられた。
椎野同志は、はじめ統制委員会議長の長期出張中の議長代理ということであったが、一方的に議長として公表され、その後訂正されなかった。こうして、大会の意志と規約の精神に反して、統制委員会議長の更迭が強行された。
その後統制委員会は、全体としては本来の使命を逸脱し、正常な運営もおこなわれず、家父長的な個人中心的な派閥的指導の擁護、批判者にたいする行政的な抑圧、まじめな批判者と一部の分派活動者を混同しての無差別な打撃主義の傾向をつとめた。これは、党内の混乱を一そう激化する重要な一因となった。
こうした混乱のなかでも、党は十八中総の諸決議にもとづいて、大衆闘争を指導し発展させていた。三月には民主民族戦線綱領が発表された。それは「論評」の精神にたつものであった。またこの間事態を団結の方向にむかって進めるための努力が若干の中央委員によってなされた。にもかかわらず党内の混乱と相互不信は拡大していった。
四月にひらかれた第十九回中央委員会総会は、党非合法化の危険をはらむ情勢のもとでおこなわれ、綱領草案と中央委員会の一般報告を主題として討議がおこなわれた。綱領問題の草案処理については意見が一致した。
またアメリカ帝国主義の攻撃に直面して、党の一致団結を保持し、分派主義者、党攪乱者にたいする闘争によって党の戦列を固めることを強調した一般報告が満場一致採択された。また「志賀意見書」の漏洩についての志賀同志の自己批判を確認した。
だが報告のなかで討議が予定されていた「官僚主義」の問題は、伊藤律が弾圧の危険があるとの情報をもちこんで、会議が予定を切り上げて閉会されたため討議されなかった。「官僚主義」の問題は、中央における家父長的個人中心指導を批判の対象としたものであって、これが討議されなかったことは、十九中総の成果にとって重要な損失になった。「論評」が発表されてから十九中総にいたる期間において、党内の混乱と対立を拡大する方向に事態を導いたおもな要因は、徳田同志を中心とする人々の機関無視の非組織的行動および家父長的、派閥的な覚機関の運営と、野田同志らにみられるような分派活動、ならびに一部の同志にみられた無原則的な行動であった。
とくに機関を指導していた徳田同志らの役割が決定的であった。たとえ、一部の分裂主義者の策動や無原則的な行動があったとしても、党中央の団結がたもたれ、集団指導がおこなわれていたならば、これらの策動を粉砕して全党の団結を保持することができたであろう。
三、一九五〇年四月二十九日、三十日にひらかれた第十九回中央委員会総会は、「中央委員会総会を終るにあたって」においてつぎの趣旨のことを強調した。
「戦略問題の処理についての基本的な見解の一致をみた。党内問題についての討議をおこない、全出席者の一致によって、民主的中央集権を確立して、党の統一を確保することを決議した。内外の反動勢力が党への攻撃を集中しているとき、全人民とともに敢然と闘うことを、全政治局員はじめ全員がかたく決意した」
総会が終ったあと、政治局、書記局の合同会議は、敵の攻撃にそなえて非公然活動体制の準備委員として、袴田里見、春日庄次郎、紺野与次郎の諸同志と志田重男をあげて、九州地方に駐在する宮本顕治同志は弾圧に際しての特別の連絡方法を書記局とのあいだにあらかじめ定めておいた。
十九中総の直後、徳田同志は自宅に、伊藤律、志田重男、野坂同志、紺野同志をあつめ、予想される敵の弾圧と闘うために、今後、志賀、宮本同志を除き、これらの政治局員に長谷川浩同志を加えて、党非合法化対策をふくめて党活動の指導にあたることを申し合わせた。
この会合に参加した人々の主観的な意図と動機は必ずしもおなじではないが、これらの人々の行動は参加した個々人の主観的意図いかんにかかわらず、また政治局の多数者の行動であったとはいえ、十九中総の一致団結の決定に反するだけでなく、党の規約と組織原則に反して政治局の統一的運営を破るものであった。厳密にいえば、政治局内にフラクションを形成する誤りを犯したことになる。これは政治局と中央委員会の分裂の第一歩であった。
そして、これらの人々は椎野悦朗同志らとともに戦略問題 その他で意見をことにする同志を除外して、弾圧のもとで闘う党の非公然体制を準備する方針を具体化していった。
椎野同志は、その後五月十八日と六月初旬に徳田同志の指示のもとに九州にゆき、宮本同志を除外して組織をつくる工作をおこなった。その際、椎野同志は次期中央委員会で志賀、宮本両同志の政治局ないし、中央委員会からの排除を実現する計画を若干の党員にうちあけている。
六月六日、マッカーサーの日本共産党中央委員会の正中央委員全員に対する公職追放令が出された。この命令の執行は二十日の事務引継ぎ猶予期間を持っていた。したがって、この間に政治局員、中央委員の協議や意志統一を行うことは、時間的にも可能であったが、それは行われなかった。
六月七日には徳田同志を中心とする人々の方針にもとづいて、統制委員会の任命という形式で、椎野悦朗同志を議長とする八名の臨時中央指導部が任命された。だがこのとき統制委員会の会議は実際には開かれていなかった。
しかも発表文「臨時指導部の任命について」(一九五〇年六月八日)は、「一九五〇年六月六日ファッショ的弾圧による中央委員会全員の追放にともない、中央委員会の機能は実質上停止のやむなきにいたった」として中央委員会の事実上の解体を是認する見地を明らかにしている。このような見地は全くマッカーサーの命令を党大会の決定、党規約に優先させる明白な誤謬であり、党の民主集中制の原則に反する重大な誤謬であった。しかも事態の進行は、これが単に敵をあざむく手段ではなく、事実上、これ以後第六回党大会選出の中央委員会は決定的に統一的な機能を失い解体させられてしまった。これらの同志の意図が、アメリカ帝国主義者との闘争のための党活動継続というところからでたとしても、党大会と党大会の間の党の中央指導機関である党中央委員会を解体さす措置は、敵と闘うべき党機能の重大な破壊となり、レーニンが「党中央委員会を破壊し、この機関の機能を停止させようとした事例」を「解党主義のとくにはっきりした例」<「解党主義の清算」(一九〇九年)>としてあげたことに知られるように、客観的には、解党主義的誤りの一種に陥るものである。
六・六追放の直後から、若干の中央委員は、それぞれ個々に事態を憂慮して党本部に行き、野坂同志に会った。これらの中央委員は、中央委員会の開催、あるいはマックの命令によって中央委員会の機能が停止されるべきものでないこと、あるいは今後どんな事態になっても中央委員間の連絡を確保しておく必要があることなどを強調したが、野坂同志はこれらの意見に同意しないで、要領を得ないことがくり返された。こうして猶予期間は過ぎた。
この間、十九中総直後徳田同志を中心として集まった政治局員の間では、これらの人々の指導のもとに全国的に非公然組織をつくるとともに、綱領問題で意見を出した七人の中央委員その他を排除する計画が、すでに実行に移され、二人の政治局員、五人の中央委員への連絡はたち切られた。こうして党中央委員会の統一的機能は弾圧を機会にして決定的に破壊されてしまった。
このような弾圧にさいしても中央委員会、政治局の機能を保持すべきであることはもちろんであり、党中央委員会の維持とその統一的運営を基礎としてこそ、公然面の臨時の指導機関を設けて、全党の公然面での統一的指導の任にあたらせることもできるのである。かつ組織原則からいえば、このような臨時の公然面の指導部は、まず中央委員候補の同志たちをあてるのが正しいのであるが、任命のいきさつにおいてもこのような方針は守られなかった。
六月十八日、臨中の招集によって「全国代表者会議」がひらかれた。会議は非常事態における措置として臨時中央指導部設立を確認した。
七月四日、統制委員会の名で「分派活動の全貌について」が発表された。これは、徳田同志らの指示のもとに、統制委員西沢同志、輪田同志、岩本同志らによって執筆されたものであって、正規の統制委員会の決定にもとづく文書ではなかった。この時期には、統制委員会も正規の機能を喪失していた。
この文書は、志賀、宮本、春日(庄)、増田、遠坂らの諸同志の名前をあげ「憎むべき挑発者、分派主義者をうちくだかなければならない」と訴え、全国の組織にたいして、これらの諸同志の排除をよびかけるものであった。この内容は、ある同志にとっては全く無実のものであり、ある同志にとっては虚実まじりあっているなどさまざまであるが、全体として、異なった意見をもつものにたいする一方的打撃を目的としたものであった。
この文書の発表と呼応して、志賀、宮本同志ら七人の中央委員と三名の中央委員候補その他にたいする全国的な除名カンパニアが開始された。「分派活動の全貌について」にしめされた見地にたいする賛否、徳田同志の起草した綱領草案にたいする賛否が、分派主義者か否かの試金石にされた。これらの文書に賛成しないか、反対するような組織や個人はあたらしく排除や除名の対象とされた。多くの党組織と党員は、中央における事態の真相を知らされておらず、「分派活動の全貌について」の記述を真実と受けとり、臨中のさししめす方向にしたがった。また、事態の真相をつかむのに困惑していた党組織や党員もすくなくなかった。だが、すくなからぬ党組織と個人が中央委員会の解体状態と一方的な判断にもとづく組織的排除の措置、そうした全国的な分裂活動に反対した。各地に強い反対運動がおこった。それは、中国五県をはじめとする十数府県、いくつかの大衆団体の中央グループにおよんだ。
中央委員会の解体と分裂は全党の分裂に発展した。不正常な各種の対抗手段が相互にとられた。「分派活動の全貌」その他による大量の除名がおこなわれ、他方、排除された組織の側からの誤まった逆除名も一部でおこなわれた。党の分裂はいくつかの大衆団体内の共産党員の対立と分裂に波及し、大衆運動の指導に不統一と混乱を拡大した。
こうした混乱のなかで、野田同志らはすでに七月に「日本共産党国際主義者団」を結成した。中西同志らは八月に「団結派」を結成した。
こうして、党の分裂は全国化したが、この分裂の根源である中央の分裂は、正規の中央委員会や政治局において何かの問題について――原則問題であろうと実際問題であろうと――多数意見と少数意見が確定された結果ひきおこされたものではない。徳田同志を中心とする六名の政治局員が十九中総の決定に反して政治局を割り、中央委員会の解体を強行することでひきおこされたものであり、この責任は、六名の政治局員――とくにその中心である徳田球一同志、ついでその側近者にある。
四、中国共産党中央委員会は、一九五〇年七月十四日、日本共産党創立二十八周年記念にさいして、日本共産党中央委員会につぎのメッセージをよせた。
「日本共産党中央委員会の親愛なる同志諸君(中略)われわれは諸君が一つに団結し、さらに日本の民族独立、人民民主主義のために闘う愛国的日本人民のすべての層と団結することをのぞむ」
排除工作の対象とされた七名の中央委員は、このような事態にあたって、中央委員としての責任において、事態を収拾するために協議した。その結果、かつて志賀意見書を散布し野田宇田川分派――その後身である国際主義者団やその他の分派が、このような混乱のなかで活動し、「別党コース」とか、党中央の全体的否定コースを主張して、誠実な同志たちを誤らせ、混乱をいっそう複雑なものにしている状況も考慮し、第六回党大会で選ばれた中央委員、同候補、統制委員は党中央委員会の機能の回復と原則的な統一のために闘うという根本的な立場から積極的に活動することが必要であると決意した。そして、中央委員はマッカーサーの追放命令下にあるので、公然機関として全国統一委員会をつくり、声明を発し、十余の府県組織といくつかの大衆団体グループがその指導下に入った。その際、国際主義者団、その他の無原則的な分派組織の参加や共同は厳にみとめず、これらは極左分派として徹底的に闘うことをきめた。これらの政治局員、中央委員と全国統一委員会の活動は、党中央と党が事実上二分された結果の反映であり、やむを得ないものであった。
九月三日、人民日報は「今こそ団結して敵にあたるべきである」という社説を発表した。この直後、志賀義雄同志、松本惣一郎同志は、統一を主張していた中央委員たちの共同行動からはなれ、やがて、臨中の指導下にはいった。その後神山茂夫君も共同行動からはなれ、彼を中心とする人々と「独自」の行動をつづけた。
九月十一日、全国統一委員会は「臨中」に統一を申入れた。臨中側は、これを拒否しただけでなく、分派組織として攻撃をつづけた。統一委員会は九月十八日、ふたたび統一のための訴えを発表した。さらに十月三十日付で「党の統一促進のためにわれわれは進んで原則に返る」という声明を発し、全国統一委員会を解消する措置をとった。これは中央委員会の統一という原則を主張しつつ統一の実現を促進するという配慮にもとづくものであった。そして、中央委員の組織としては、全国の党組織への指導をつづけながら、一方、統一交渉を臨中を通じてつづけ、党活動を継続する意志をもつすべての中央委員の連絡の回復と中央委員会、政治局の機能の回復を重ねて提案したが、徳田同志を中心とする同志たちは、中央委員会の解体その他の既成事実を承認せよという建前からこれを拒絶した。
この当時にはすでに党の日常指導は徳田同志の指名した少数の人びとによっておこなわれていた。これらの人びとは五一年二月にひらかれた第四回全国協議会を招集した。四全協 は「当面の基本的闘争方針」「規約草案」「分派主義者に関する決議」を決定し、新しい指導部を選出した。これらのなかで、極左冒険主義をうちだすとともに、「スパイ分派の粉砕」として、統一を主張していた同志たちへの闘争を強調した。
四全協は、第六回党大会の規約および党中央委員会の解体と分裂状態からみて、適法的なものではなかった。それは、第六回党大会の党中央委員会や規約の無視によって党の分裂状態を決定的に固定した。統一を主張していた中央委員たちは、四全協は党の分裂の一方的な合法化の試みであり、これによって、統一のための闘争は新段階に入ったとみなして公然機関を再建して全国統一会議を組織し、党の統一と大衆闘争の指導を積極的にすすめる態勢にうつり、極左冒険主義に反対し、「民主民族戦線の発展のために」などの方針をだした。こうして、党中央と全党組織の分裂状態は固定化し、両者のあいだにはげしい批判と攻撃がつづけられた。その間に、選挙戦などの大衆闘争のうえでの抗争もおこった。
それにもかかわらず、 それぞれの党組織と党員は、アメリカ帝国主義と、日本の反動勢力に反対し、平和と独立、民主主義と人民の生活を守るための闘争で勇敢にたたかうことを やめなかった。
二つの組織が公然と対立抗争する党の分裂状態は、大衆の不信と批判をうけ、党勢力は急速に減退した。
七月に臨中議長、椎野同志は、「党の理論的武装のために、私の自己批判」を発表した。それは、これまでの理論軽視についてのべつつも、分裂問題については、依然として党中央委員会の解体に反対している同志たちを「分派」「空論主義者」とよび、従来の態度を固持して、党の分裂を一方の理論的低さ、経験主義と他方の教条主義として定式化したものであった。
それまで全国統一会議の指導部にいた春日(庄)、亀山同志らは、椎野文書の発表を臨中側の自己批判がはじまったものと判断して、党の分裂の原因にたいする批判的態度は保持しつつも、事実問題として四全協による指導部のもとに党を統一する方向にすすんだ。
全国統一会議の指導部は、椎野文書にたいする批判の文書のなかで、椎野文書がとくに分裂問題について旧態依然であると主張した。
一九五一年なかばごろには、全国統一会議の代表と、臨中の代表のあいだに、選挙戦で二つの組織から立候補するなどの事態をさけるために、協力と統一行動をすすめる話し合いがすすみ、統一への気運が促進されるかに見えた。
ところが、八月十日の恒久平和紙は、四全協の「分派主義者についての決議」を支持的に報道した。そのため四全協による指導部は、これを自己の勝利とうけとり、原則にもとづく正しい統一の道をとざした。
全国統一会議を指導した中央委員たちの組織は、「党の団結のために」という声明を発して、その組織の最終的な解散を宣した。これらの党組織に属した人々は、「復帰」の条件として五一年綱領と四全協の規約の承認を求められ、一方的に分派としての自己批判と告白を強要され、そのために「復帰」も順調にすすまなかった。
そして、五全協後も党の分裂問題や当時の党指導の極左冒険主義とセクト主義に不満と批判をもつ党員が指導的幹部になっていた農民団体、婦人団体、文学団体、学生団体のなかでは、これらの人々をさまざまな方法で攻撃して、大衆団体の指導部から排除する工作が党の指導としておこなわれた。その後、極左冒険主義とセクト主義、および党の分裂の未解決からくる党内諸矛盾の激化、大衆からの孤立化傾向の増大、大衆と結びついた党員や自覚的な同志からの無言の批判と統一を求める底流は、五全協指導部のなかのまじめな人々のあいだで従来の指導についての再検討の気運をよびおこした。そして、排除された中央委員の一部とも協力して、六全協決議の示すような転換が準備されるにいたった。それは、まだ分裂問題について、今日のような根本的な再検討には入っていなかった。しかし、かつて排除された指導的な諸同志のなかから実際上の協力をあたらしく積極的に求めるとか、この問題についてのこれまでの態度の再検討と「復帰」のあたらしい促進をはかるなどの態度としてあらわれた。
六全協は、まだ党分裂いらいの事情による歴史的制約をまぬがれていないとはいえ、極左冒険主義の清算とともに、党の統一のための前進にあたらしい重要な転機となった。そし て今日、全党は第七回党大会をめがけて、党の分裂問題の根本的な解決と全党的な統一と団結の決定的な確立をたたかいとろうとしているのである。
これらの経過が示すように、一九五〇年の党分裂の真相は、ながく明らかにされず、正しい分析も評価も加えられず、「正統の党機関にたいする分派の存在」という定式化がながくつづけられた。しかし、六全協後つづけられた検討の結果明白となった歴史の否定しがたい事実と、マルクス・レーニン主義の原則による分析の結果はこのような定式化は正しくないこと、真実は別にあることを明らかにした。十八中総以後、志田重男らの志賀同志にたいする排除工作にみられる分裂的、組織的行動および野田、宇田川らの分派行動は、いずれも党の民主集中制を破壊する行為であることはいうまでもない。志賀同志が「志賀意見書」を野田同志に渡したことや、志賀同志の意見書の内容が正しくないことも明白である。
しかし、これらがいかにあやまった行動であったとしても、十九中総の決定を全政治局員と中央委員が守ったならば、あのような党の分裂は生まれなかった。党の中央委員会の全員が団結して敵の攻撃と闘うことをきめた十九中総のこの決定は、まったく正しかった。しかし、中央委員のその後の活動は、この決定を守りぬくことができなかった。この点において、当時の中央委員は党中央と党の分裂を阻止しえなかった点において全党と人民にたいして責任がある。しかし、そのことは一億総ザンゲ式に分裂そのものの責任の所在を不明確にしてよいということでは決してない。徳田同志を中心とする政治局の同志たちが、分派的な組織と術策をもって政治局を分裂させ、中央委員会を解体分裂させる挙に出なかったならば、あのような分裂の事態は決して発生しなかった。また、党中央が破かいされた後でも、徳田同志を中心とする同志たちが、原則にもとづく統一の訴えや申し入れに多少とも耳を傾ける態度をとっていたなら、六・六当時において、九・三当時において、またその後において統一はただちに実現できたであろう。
不幸にも事態はかくのごとく推移しなかった。分裂は固定的になり、党の統一が達成されないばかりか、党組織は二分された状態のままで存続した。その結果主観的意図にもかかわらず現在までしこりは尾をひき、いまだに党の完全統一をなしとげえないほどの打撃をこうむった。
このことは、党と人民にはかり知れない損害をあたえ、米日反動を利する結果になった。これについての党中央の責任は重大である。歴史の事実は党の統一がなにものにもまして重要であることを教えている。
党生活のマルクス・レーニン主義的規準の擁護、そこからの一切の偏向を双葉のうちに克服すること、とくに大会と大会とのあいだの党の中央機関、中央委員会の役割を重視し、どんな条件のもとでもその機能を保持することは、党の生命である全党の統一と団結にとって決定的に重要である。 それこそが、個人や少数者のどのような偏向や逸脱からも党を守るうえの決定的な組織的条件である。
そして、党の最高機関である大会で決定されるべきことを他の党会議で行うことが、党規約に反するだけでなく、各種の重大な誤りや混乱を生むことを知らねばならない。大会の決定は、全党の意志の集約であり、大会の重視、大会開催の正常化は、民主集中制の基本的な保証である。
また、一九五一年八月の恒久平和紙の論評などわが党の複雑な内部の組織問題についての、今日となっては明白になった一面的な判断が、分裂問題の正しくない解決の重要な一因子となったことも否定できない。
しかし、これらの点が十分検討されるに至るには、徳田同志を中心とする家父長的個人中心指導についての率直な検討と批判が可能になるまでの時間がかかったのである。また、スターリンへの個人崇拝の問題、スターリンの晩年のあやまりの問題が解明されるにいたって、一そう、それが可能になったのである。そして、一九五〇年問題におけるこの個人中心的指導の役割が解明されるときになって、はじめて分裂問題について全面的な再検討ができるようになったのである。
党中央委員会の解体と分裂という不幸な事態にもかかわらず、それぞれの党組織でたたかった一般党員同志は、それぞれの党組織に属してたたかうことを党員としての誠実な義務と考えて、党の統一を熱望しつつ日本人民の解放をめざしてたたかったのである。分裂問題を通俗的、現象的にとらえ、とくに、ブルジョア・ジャーナリズムの宣伝したように、当時の全党員を「主流派」「国際派」というような分類にいれて論じるというようなやり方は正しくないだけでなく、党の団結にとって有害である。
徳田球一同志の、この問題におけるあやまりは非常に大きく、決定的である。それが、伊藤律の挑発によるところが少なくなかったとはいえ、このことは否定できない。しかし、そのことは、徳田同志の全生涯を全体として大きな革命家の生涯として評価することを妨げない。むしろ、党分裂問題についての徳田同志のあやまりを明白にすることは、彼にたいする表面化されない不満と非難に正しい解決をあたえ、人びとがわだかまりのない率直さをもって、敵にたいする彼の不屈の生涯をながく回想することを可能にするであろう。
この不幸な分裂の期間に多くの同志が深く苦悩し党の戦列から去った。多くのまじめな党員が不当にスパイあるいは挑発者の汚名をきせられ、さらに除名によって共産党員としての最大の名誉をきずつけられた。これらの同志がうけてきた精神的物質的苦悩にたいして心から遺憾の意を表する。同時にこの期間にそれぞれの組織において党の旗を守り、労働者階級と日本人民の利益を守って闘いぬいてきた全党の同志諸君の労苦にたいして深く敬意を表する。
五〇年問題を正しく解決し、わが党が今後ふたたびこのような誤りをおかさない保証をうちたてるためにわれわれは、団結から出発してさらにかたい団結に達する決意をもって、原則的な検討と相互、自己批判をつづけてきた。この努力は、今後もひきつづきおこない、この問題についての分析と反省をさらに深めるつもりである。この報告を全党に発表するにあたって、全党の同志諸君が、この問題から原則的な教訓をくみとり、労働者階級と日本人民の解放のために、党の団結をいっそうかためて奮闘することを訴える。
一九五七年十一月五日
日本共産党第十五回拡大中央委員会
初出:「アカハタ」 1957年11月6日付号外 表記は『日本共産党の五〇年問題について』(新日本出版社 1981年)に採録されたものに従った。
日本を本国とするこの著作物は、著作権法の定める保護期間を満了しているため、パブリックドメインに属しています。